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9 現在最も納得している天孫降臨ルートのひとつ

 投稿者:かわかっちゃん  投稿日:2007年12月21日(金)13時41分40秒
編集済
  今年(2006年)8月の朝日新聞掲載記事より。
現代におけるいわゆるボートピープルが用いる船舶がそのまま古代の船と同じだとは言えない。確かに船外機を使用している可能性もある。
だが、海流と照らし合わせるとこの二つの大きなルートには納得できるものがある。
それにつけてもこの、あたかも目的地であるかのような上陸地点の集中性はどうだろう。
そして出航地点が今も昔も山東半島であるということに驚きを感じてしまう。
結論として中国から日本へは「来ようと思う意志があればボートでも来れる」という既成事実である。
ということは縄文時代だって同じことになりはしないだろうか?



では縄文時代にシベリア~北海道の「氷の道」を来たものがいたという仮説はどうだろう。アイヌに限って言えば、北海道の対岸であるカムチャッカあたりにアイヌ民族がいるのだと聞いている。個人的な常識から判断すれば、その移動が、海が凍る時期に実行されたとは考えにくい気がする。なぜなら、道中の食料はどうしたか?という素朴な疑問につきあたるからだ。春~夏のおだやかな天候のもと、船で行った方がよほど早いだろうし、それなら魚を釣りながら行ける。
いずれにせよ、船なら2日もあれば行き着くだろう。数日分の食料だって、えっちらおっちらソリで運ぶより、船の方が圧倒的に楽である。なにも、ブリザードの吹きすさぶ冬季に、氷のすきまに落ち込むような危険を冒してまで行ったかどうか・・・?

北方民族の去来も、一度朝鮮半島あたりまで南下して、潮目に長じた海岸部の船人たちに頼った方が随分確実性が高くなるだろう。普段馬に乗っている民族が海に出て行く着想を思い立つだけでもかなり無謀さがあるように思う。簡単に「船で来た」と言うけれど、その船を造るには相当な知識と技術がいるはずだ。今も昔も手っ取り早い方法は、既成の船人を懐柔して協力させることだろう。

のちに犬戎、槃瓠と中国江南の国家から呼ばれる人々はもともとバイカル湖周辺の砂漠の民であったが、気候変動による小麦の不作などが原因で何度も南下して歴代の中国国家から畏れられていた。同じく、匈奴や西蛮もいた。それで万里の長城は必要になるのだが、始皇帝の兵馬俑の守護俑の中に、それとおぼしき「背が比較的低く、頭蓋骨の形が鉢が長く、顔の骨格が骨張って細長い」蜀人たちが立っているとNHKの番組で見たことがある。犬戎の一部には始皇帝に取り込まれた一族がいたことがわかる。三国時代に魏に破れた諸葛公明の蜀人たちの大元はおそらく彼ら犬戎も入るだろう。

呉越の時代を経て彼らが江南に同化し、やがてなぜか呉王が南方海岸部へ移住させた記録があると大林太良などが書いている。北方の血を受け継ぐ彼らがやがて今の中国~インドシナに住む少数民族へと別れて行ったのではないかと思える。現在の上海や海南島、台湾などに伝承される犬祖伝説や、日本の神話にそっくりの言い伝えを彼ら少数民族が持っている。四世紀頃にこれが道教として大成されてゆくのだと思う。その基盤にあるものは山の神、水の神、猿の神などの神仙思想である。そして神仙思想の根本は山の鉱物と水によって画期的な道具が作られるという「錬金術」的驚きではないか。

実は呉王が犬戎たちを押し込めた場所こそが、地図にある会稽東冶の南の小島なのである。山東半島の南側は今も昔も、「情報と人種の流出口」であろうか。古代において喜ばれたまれ人達も、現代社会においては不当な密入国者とされ迷惑がられているのは国際社会の変容としか言いようがない。なにしろ昔は先進国だった国が今は日本より遅れているのだから致し方ない。新しい知識を持ち込んでくれなければ、ただの侵入者でしかない。



川上しのぶ氏「古代であそぼ」サイトから許可転載



半島経由の南下説が最も受け入れられている現在、なぜあえて山東半島からのルートなどを検証するのかというと、もちまえの反骨心と、半島からだけじゃあ面白くないじゃないか。もっといろいろあるはずだという好奇心である。

また同時に、半島からやってくるにせよ、陸の人間が渡航するということが相当の時間と知識と協力がいっただろうということを説明したいのである。

いきなり海を渡ってやろうと思うだろうか?
いや、かりにそう思ったとして、すぐに海に出て行くようなことをするだろうか?
いきなり船が造れるだろうか?
方角は?
いやいや、この海の向こうに国があるという情報そのものは誰から仕入れたのか?
思いつきか?そんなはずはないだろう。

「知っている者」がそこにいたからだろう?

神武でさえ、先に大和に入った種族があることを知ってから船出している。どこの世界に海を見て、行ってみたいと空想しこそすれ、いきなり海に乗り出すものがいるだろうか。まず知っている者がいたからこそ初めて渡航へのノウハウを考え始め、情報を集め、船舶と渡航技術と天文・気候・潮目の知識を持った者を集め、協力体制が整ってから実行するだろう。それでもまかり間違えば嵐に遭ったり、潮目に乗り損ねて漂流する。一度失敗すれば巨額の費用は海の藻屑と消える。

長い年月が準備期間として必要だろう。そしてナビゲーター、航海士たちとの強い絆がなければなるまい。卑弥呼の使者でさえ、いつ死んでもおかしくないと思ったからこそ持衰というスケープゴートを用意していたのである。

ところがそいうことを平気で、木の葉のような小舟で日常やっていた民族がいたのである。
そうでなければ、そういう民族がいなければ、誰が安全な馬から下りて板子一枚下は地獄と言われる危険な乗り物に乗るものか?狩猟民で、氷に閉ざされた北欧のバイキングでさえ初めて海に出た時は生きた心地はしなかったろう。ほいほいと来れるものですか。元寇の失敗を考えてみればすぐわかることだ。

少数が何度かに渡ってやって来て、潮流の気まぐれであちこちに分散させられたはずである。
民族がまんま移動できたはずはないし、いきなり馬なんか運べるはずがない。少しずつ長いスパンでやって来て、仕方なく先住者たちと混血して氏族を増やしていったのは自明の理である。

4世紀になって応神天皇の時代に秦氏がやって来たと記録がある。
朝廷に「多くの民が残っているから、迎えに行きたい」と言っている。
最初に来たのは数人なのであろう。

その後、葛城の襲津彦が半島へ迎えに行った。これもおそらく命がけのはず。
三年経っても帰ってこない。127部もいた秦氏の眷属。1部10人としても1270人もの男女を連れて来るには何十回もの渡航が必要ではないか?一度に運べる大きな船があるはずない。天候も左右する。そりゃ三年でも早すぎるくらいである。その間に葛城と秦の間に同属化が起きてもなんの不思議があろうか?

みのもんたが秦氏に興味があるようなのは以前から彼の言葉の端々から気づいていたが、民放の番組で取り上げるとは思わなかった。内容は他のTVと同じく尻切れトンボの興味本位だが、メディアに乗せただけでもいいことだと思う。
しかしやはり興味本位はどうにもならない。久保有政などを連れてきて「ユダヤか?」などとやっていたが、秦氏がユダヤのはずがない。そうではなく、秦氏はユダヤ的な知識を取り込むネットワークを持っていたということなのだ。それは渡航術、船団、通商貿易という極めて現実的な行為の結果である。その知識を聖人・聖徳太子を作るための情報に利用したのである。知っている、似ていると言うこととその民族が実際に来たということはまったく別問題である。来なくても風俗は伝わるのだ。海を伝って。

ユダヤの失われた10氏族がアジアに拡範していった過程を分析すると、和田(ホータン)や楼蘭(ローラン)と言った北の砂漠シルクロード・コースと、スンダランド経由の海のシルクロード・コースがある。と言うことは当時、貿易の大きな二つの流れがあったことは事実だと思う。それに乗って景教もやって来た。中国にはちゃんと記録がある。その中からプレ道教の影響を受けた一部のラビが漂着したとすれば、小説として棄てがたく魅力あるお話である。楽しい時間が過ごせるだろう。コイネイギリシャ語で書かれた聖書でも出てくれば天地がひっくり返るだろう。それはそれで楽しみなことではある。本当はもうとっくの昔に出ていて、冷泉家あたりに隠されていたりするかも知れない。などと妄想を遊ばせるのも個人的に許せなくはない。そういう歴史の楽しみ方もあっていい。

けれどそういう着想はすでに飛鳥昭雄という人物がやっちゃっているから、かわかつはそれを読むだけにしている。

今のところ日本の民間信仰にも国家神道にもユダヤ教は直接影響した記録はない。あるとすれば中国における道教成立過程で景教の影響を受けた部分が秦氏の貿易によって「知識として持ち込まれた」というのなら「ある」と言わざるを得ない。またユダヤの民が来たとしたらおそらく広島県あたりの佐伯氏が怪しい。これは広島の佐伯という人物を見れば「おお!」と納得する話。顔が中近東。おっと信用しなくてよろしい。彼等の名誉に関わる。

稲作の伝播は縄文後期にはすでに始まっている。
それに引き替え、鉱物採掘の歴史はまったく検証されていない。考古学で確かめられるのは鉄滓(かなくそ、てつくそ)の発掘程度である。これはプラントオパールから割り出される稲作の開始時期からかなり遅れて弥生時代前期とされている。それ以前の記録は諏訪の薙鎌神事の記録に縄文期からと推測可能な記録があるのが唯一である。愛知県高師などでは水辺のアシに吸着したバクテリアが鉄成分を集めて球形になった高師小僧という褐鉄鉱が出ている。縄文時代のものである。
これを使って土器や顔に埴土の代わりに塗っていたと考えられている。

これを使って諏訪の薙鎌を作ったという説をある女性が書いている。ただ、高師小僧は一度採集するとあとがない。再生するにはまた何万年の年月が必要である。つまり使いっぱなしの資源である。
とすると、腐食しやすく壊れやすい鉄の鎌を毎年作っていたら当然、何年もしないで資源不足となることは目に見えており、そうなると神事自体立ち消えになっていなければならない。

いずれにせよ、たたら製鉄の知識が縄文時代に来ている必要もある。しかし、そんな先進技術を知っている大陸人の漂着があれば、すでに高師小僧などの枯渇しやすい資源よりも、鉱物の採集が開始されていくはずである。諏訪にそのような遺物が出てこなければならない。

造れるということと、造ったという事実があるということはまったく別の次元である。

諏訪よりも先に、高句麗系の積石塚がある安曇野で先に痕跡がでるはずである。
薙鎌神事自体の始まりは持統天皇の時代であると考える。薙鎌を樹木に打ち込む行為は風水の金剋木で、風穴ふたぎが大元であるから、記録では持統天皇5年を遡らないと考えられる。

そもそも諏訪の縄文人が後から来た渡来弥生人と争ってもけんかにもなるまい。
圧倒的に武器が違うのだからいくさにもなにもならないだろう。諏訪の伝承はあきらかに奈良時代の阿蘇氏大祝によって持ち込まれた、奈良朝廷の作為である。

現在、各地で古代の構造船が出ているが、果たしてあれで外洋航海が可能なのだろうか?
丸木船に化粧板をほどこしただけの外見だけは見事な船であるが、嵐に遭えば木っ端みじんになるだろう。それよりもトリガーのついた双胴船が出てきて欲しいものである。


それにしても・・・
もう一度朝日新聞の図を見て欲しい。
日本の侵入地である。
日本海側は福岡、山口、兵庫、新潟。太平洋側が大分、徳島、千葉。
瀬戸内海は狭いし航路が集中して四六時中船が行き来しているから当然はずされる。東京湾もまあ無理だろう。だから比較的地方の小さな港近くに上陸するのは納得できる。
しかし、福岡はかなり都会である。大分だって別府港もあるし、南米からのバナナや鉱物が入港している。千葉もけっこう首都圏だ。

なにかある?

まず最初に感じたのは福岡は最短距離だし、古代には那の津と呼ばれた迎賓港がある。在日中国人も多い。
大分は古代から海部氏がいたところ。白水郎の伝承もある。ツヌガアラシトの妻も来た。
兵庫の日本海側は但馬だからアメノヒボコが定住したところで渡来文化が花開いた。大国主とのこぜりあいが風土記に。
徳島も淡路島に対面し上方への入り口で、物部、吉野川がある。
千葉は海上郡があり渡海神社があり、昔から漂着の多い場所。
新潟は弥彦神社があり、昔の高志の国で、信濃川から安曇野へ入れる。
山口には土井が浜遺跡があって、いくさの痕跡。
新聞ネタを探って行くとこれらの各地で中国人とのトラブル、事件が起きていることに気が付く。恐ろしいが古代の記述でもこれらの場所でいざこざがあったことになっている。

これは言わば古代の縮図とも言える漂着の玄関口があるということかも知れない。
しかし能登や出雲がないのは不思議な話。面白い着眼点だと感じている。

2006年12月8日 かわ

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10 滋賀県永源寺木地師と御所地名について

 投稿者:かわかっちゃん  投稿日:2007年12月21日(金)13時40分15秒
編集済
  おもに谷川健一氏『日本の地名』からの着想です。
本当は実際に行ってフィールドワークすべきなのですが、財政難のためと年末のあわただしさで仕方なくここに書くことにしました。

親王伝説を持つ多くの杣、番匠、木地師たちの中で全国で最も名の知られたものに、この永源寺杣、永源寺木地師があります。
他にも京都の木津や、和歌山の黒川漆、あるいは熊本の雉子車など作った木地師達は、特に聖武天皇時代に近江に石山寺などの寺社を建て始める頃から滋賀県永源寺町を本拠地としてゆくようです。この時やはり有名な岐阜県の飛騨の匠たちも、欄間建設などの必要からここにあつまったと思います。

君が畑が主な切り出し場所かと思いますが、この木樵関連の回遊職能民の中から、蹈鞴製鉄、漆、欄間、宮大工、石橋架橋、土木、紙漉、運搬業、白拍子、壁塗り、深草、蓑造り、金売りなどの技術が伝わって行きます。したがって山師とともに、木地師たちもまた、日本の古い山間部の風景や地名に大きく関わる一族だと言えるでしょう。

京都の西の京方面に鷹峯という名山がありますが、あの山の鷹などもそうですし、京都市右京区の方にある十一地名、あるいは北山の奥にある京北町などの柚地名も、木地師たちのいた場所だろうと思えるわけです。

近江の永源寺周辺に最初に職能民があつまるきっかけを作ったのは宇佐神宮の最初の神宮寺に縁のある良弁和尚(金鷹和尚)です。良弁は行基の兄弟弟子であり、空海の大先輩であるうばそく出身の東大寺初代別当でもあります。
彼は子どもの頃に鷹にさらわれたという伝説もあります。そして母がそれを探して行脚し、再会の後、末期の水を欲しがった。それが福井県遠敷の閼伽の水なのです。
それが東大寺お水取りの水です。

お水取りと同時に進行する修二会は、丹生、水銀、鉱物に関わるありとあらゆる職能民・・・すなわちむくわれず死んでいった技術者達の御魂を鎮めるという側面を持った、いわゆる施餓鬼会でもあります。ですから鬼が出てくるわけです。
鬼と言えばこれはもうに主に山師たちなのですから、あれは鉱物神への鎮魂と見ることもできます。

遠敷の地名ですが、もともとは小さい丹生、小丹生の音に文字をあてたものでしょう。「おにゅう」。遠い敷と書くのは思うに、九州方面でも間歩=坑道のことを「敷き」と申しますので、遠い場所にある間歩となるのでしょうか。近い敷きはどこかというと吉野、熊野でございましょう。

さて近江と言えばまず天智天皇近江朝ですが、実は近江の仮宮にはいったことがある天皇は他にもいます。遷都遷都にあけくれた聖武天皇であります。
桓武天皇もそうでしたが、この聖武天皇も実に腰の落ち着かぬ人でした。その一番の原因は多くの親王を権力の座からひきづりおろしたのと、西の方に起きた藤原広嗣の乱から逃げるためだったそうです。なんおとも小心者ですが、そのために一時は紫香楽にまで逃げ込んでいます。なにしろふたりの女帝の教育を受けて、思い切りいくじのない人物だったようです。

この方は無駄遣いの帝王でもあり、その無駄な税金の浪費で、常民は大いに苦しみます。
おまけに奈良に多数の仏像を作ったため、水銀で平城京はやられてしまう。大和川を汚染し、山師達を鬼として、自分の命令でやったくせに、ひとのせいにします。
そしてひたすら怨霊から逃げようと右往左往。とんでもない小悪党ですね。

一番に鬼にされたのが水銀採集民でしょうね。
木地師と山師は一蓮托生の部分が大きいのですが、すくなくとも木地師は鎮魂の宮作りに関わりますから鬼にされたとは言えないでしょう。

良弁自信はたんなるうばそくから、一気に出世する不思議な人物ですが、おそらく真言密教と道教の天文遁甲などをうまく融合させた今の阿ゴン教のような、まか不思議な方術で皇室に取り入ったかと思います。それは彼が鷹にさらわれた・・・すなわち修験者を中心とした山師集団にさらわれたということが関与します。これはいわば忍者のよくある神隠しそっくりの、後継者育成のための人さらいだったと思えるわけです。まあ、天狗にさらわれたとか言うのと同じことです。
ですから良弁こそはやがて職能民、山師たちの頭目的な出世者になれたわけだろうと。
彼と、出羽の百済敬福というのがどうやら仲間です。あと宇佐の大神比義ですね。いわゆる金発掘によるネットワークを持った山師うばそく連合ですね。
ここに秦氏は関わらない感じがするでしょう?

ところが聖武がうろうろした背後でいつも手を引いているのが秦嶋麻呂でした。藤原氏に嫁を出し、権力を欲しいままにできた嶋麻呂の流れは、桓武の平安遷都における秦小黒麻呂にまで引き継がれます。彼らは不動産屋といってもいいし、都市計画のデベロッパー、プロデューサーでもあろうかと思います。



永源寺周辺には御所地名が氾濫します。君が畑の君も惟高親王や尹良親王(ゆきよし)の伝承から来ているようです。ただ御所地名については御所車の八角形の家紋自体鉱物である可能性もあるわけです。御所車の家紋は源氏を表すものです。源氏車とも呼ばれています。
この源氏の下にいた土豪の中に木地師達の末裔がいたかも知れないし、また源氏の武器調達斑としての山師集団がいたかも知れません。

司馬遼太郎氏は『街道をゆく』の中で、平安終末期に関東に入った騎馬集団の存在を特記しています。彼らが板東武者の始まりではないかと言うのですが、この板東武者というのと京都の源が本当に頼朝でつながるのかというと極めて「うそくさい」のです。
系図などはいくらでも詐称できますし、頼朝の最後はなんと武者にあるまじき落馬に始まっているのですから、疑ってしまうのです。

そもそも吾妻という地名は「あずみ」からきたのではないでしょうか?
だとすれば、安曇族が元々いた関東に入ったのはもともと安曇の船を使っていた、山背から出て行った秦氏でした。それも秦氏管理者にとって必要なくなったあぶれ者だったはずですから、秦部というべき部民でしょう。下賤の原住民と言ってもよかろうかと思います。
つまり秦部は渡来した127部のうちの、高貴な為政者ではなく、職能民、倭人であった。その血の中には南方系神仙思想を信じる蜀や犬戎のものが流れていたのではなかろうかと思うのです。武士のあの残虐性。首狩り風俗はどうみても南方の蛮族的な血筋に見えます。挑戦で首をはねる習俗が武家にあったかどうか知っておられるなら教えていただきたいのですが、あるのでしょうか?

こういう人々が集まった君が畑や御所平から多くの宮大工や匠が出てきます。そして各地へ流出してゆくのです。だから本来西の地名が、東国、北国へも移動してつけられて行くのだと思える。

富士山の「ふじ」なども、私が幼いころ学校で習ったのは本田勝一さんみたいな、申し訳ないけれど学者ではないジャーナリストが書いた「アイヌ語説」でしたが、どうも納得できない。
アイヌ語で山の名前がついたのなら、他の山の名前もそうであるはずでしょう。
しかし八ヶ岳などは鉱物です。阿蘇も鉱物。鉱山周辺に必ず「藤」「葛」地名があるのはなぜか?
それは「ふじづる」が運搬用の紐、あるいは坑道へ入るときの命綱に使われたからではないか。藤という名前の方に聞いてみて下さい。あなたのご先祖はどんななりわいをされてましたか?と。大概のかたはなにも知らないでしょうが、鉱山近くや古いおうちの方なら「鉱山」と答えるのではないかと思います。

土蜘蛛の中に国樔の民と言われる原住民が出てきます。井光などもそうですが、愛知県の天竜川沿いにも木地師が山ほどいて、尾張氏にやられてゆく。尻尾があるという水銀一族でしょうが、犬のイメージも尻尾にありますし、同時に命綱を巻いて竪穴間歩からはい出たのかも知れない。尾張の羽生氏などは熊本多氏にやられて同族化した氏族でしょう。

あと京都の向島あたりは鋳物師(いもじ)ですね。
東一口でいもあらいなどという地名が宇治~瀬田~綴喜郡には多いですね。
あそこはこないだまでひどかったんですね。住んでいたからわかりますが、解体業ばかいなんです。宇治に六地蔵なんてありますが、お茶の名産地。お茶はね、そういう作りやすい土壌があるわけで、大概、その上が鉱山なんです。お茶も中国から来ていますから、おそらく秦さんたちの仲間でしょうね。渡来技術でしょう。

おちゃの名産地を列挙しただけでも気が付きますよ。
宇治茶、八女茶、杵築茶、因美茶・・・

瀬田は勢多。十把一絡げの運搬業。これが履き物になって「せった」。

熊本県の乙姫。気象庁の基準測定地ですが、熊本の方になぜ阿蘇のあんなところで乙姫かと聞くと、だまるんです。あそこはそういう場所だと小声でおっしゃる。なるほど。だからかえっていい地名なのだと。
このような地名に貴文字を使うのはあえてそうなのであって、そういう方が住んだかららしいのです。神話で言うならそういうところが天孫降臨地名になるんですね。

日向もいい地名でしょう?西都原あたりの古墳群周辺の上も日向峠です。昇って行くと椎葉。米良。杣、番匠、木地師、山師の地名でしょう?ですから昔の学者には手が出せなかったんだと思いますね。山奥は。


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7 民俗学の現在と問題点

 投稿者:かわかっちゃん  投稿日:2007年12月21日(金)13時35分57秒
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  日本の民俗学は柳田國男が創始し、折口信夫が引き継ぎ、その後、規定の決まり事のように創始者・柳田自身の研究史を追いかけていきました。

その柳田國男は天皇家にも関わる明治の国家公務員でした。
当初、柳田の研究の根幹にあったのは、山の民、サンカなどの被差別民の行動を追いかけることに主眼を置いていました。
当時とすれば、おそらくそれは官人としては「異端」の道であったはずです。

国家がサンカと名づけて敵性人種として危険視したセブリの研究こそが日本の民俗風俗の基幹にあるという柳田の発想は、それ自体が危険思想とされても仕方のない時代だったのです。
明治~昭和20年まで、日本の国体は天皇を最高の権威とし、神である、絶対であるというイデオロギーの基に動いていたのですから、その天皇家と血縁であるなどと自称するサンカをはじめとする地方の被差別民たちの存在は官憲から見れば消滅せねばならぬ存在、目の上のたんこぶであったのです。

それを国家の公務員である柳田は悠然として研究し始めたのでした。彼の凄さ、反面無謀さは推して計るべしです。

柳田のあとを受けた宮本常一などの中心的民俗学者もまた、柳田の「常民よりも山の民」という研究姿勢を継承し、当然のように、国家権威の強い影響を受けやすい文献歴史学者から嘲笑され続けたのでした。

柳田國男の研究史を読み返して行くと、彼が当初の山の民研究を突然やめ、むしろ、自ら封印したような印象を受けると思います。
しかし、これを攻めることは誰にもできません。彼の立場と時代の流れを鑑みれば、強行すれば生命の危機を迎えたことでしょう。

ところが戦後、時代は180度の大変換期を迎えます。
イデオロギーはアメリカ製の議会制民主主義へ向かって一気に突き進み、わずか60年で日本は今の高度成長期を経た地球汚染を犠牲とする西洋的資本主義を美とし、世界の大国へと成長してしまいました。

一時的に戦後の混乱期には、それまでの軍国主義への反動として正反対の共産主義や社会主義へ傾きかけますが、結局、アメリカ政府はそれを許しませんでした。ですから「自由」とはなんでもありということではないのだということに日本人も早くから気づきます。

この混乱期に津田左右吉などの共産主義歴史観が一気に花を開かせてしまいます。そして時代の民主主義への転換の波に大きく学問は遅れて行きました。

戦後、しばらく経ってから柳田國男の民俗視点はようやく見直されるようになります。

ところが科学する歴史学という進んだ、イデオロギーに左右されまいとする、冷静な学問として自然科学を取り込んだ文化人類学というものが生まれてきました。そしてむしろ柳田の方向性は民俗学者よりも文化人類学の手にゆだねられて行きます。簡単に言えば、文化系学者が気づいたテーゼを理科系学者の「分析」によって再検証するという動きが主流になっていったのです。

私はこの辺の動きが、やはり同じく復興期に始まる文学界の動きによく似ていると感じます。
文学もまた、戦後、共産主義の洗礼から逃れることができた、安部公房や大江健三郎などが世界的に注目を浴びていったように、歴史の世界も、ある意味、非常な過渡期と淘汰の洗礼を受けねばなりませんでした。

今、歴史学は柳田から始まって谷川健一にたどり着く科学的物質民俗学へと歩み寄ろうとしています。そこに正しい整合性があることに文献歴史学者もようやく気づいたのです。
ところが皮肉なことに、当の民俗学の方は、どんどん柳田から離れていこうとしているのです。日本の民俗学は民俗学としての本筋に戻ろうとしています。それは「常民の暮らしや道具を調査する」という極めて狭く、杓子定規な世界です。
「常民」とは農作民です。つまり柳田が選んだ被差別民や回遊職能民の研究をやめ、ちゃんと税金を払えていた農作平民たちの暮らしに絞り込もうとしている。危機回避とも言える方向です。
日本の「民俗学」と世界の「民族学」の違いはここにはっきりとしてゆくことになります。

現在の歴史学は考古学、柳田民俗学、世界的視野の民族学、世界史、東洋史学、文献史学、文化人類学、宗教史、さらには博物学、鉱物学、地質学、生態学、生物学、遺伝子学などありとあらゆる面から研究が行われています。
当然の結果なのではないでしょうか?
学究に本来、イデオロギーや派閥など無用のものです。いや、むしろそういうものこそが人類の進歩を妨げてきたことの方が多いのです。
これは政治や経済でもまったく同じことです。

しかし、最も大切なのはやはり柳田の「常民の外にいるドロップアウターこそが真実の継承者だ」いとう基本ではないでしょうか?
そして、現代社会が失ってきた「迷信」「畏怖」「怨霊」と言った、これまで日本人の精神の根幹にあり続けた自然への敬虔な意識こそがわれわれに正しい道を実は教えてきたものだったのだということ。
決して儒教精神などという姑息な自己犠牲的、差別的なものが日本人の道徳観を作り上げてきた本質ではないのです。儒教はむしろ人間の無用な敵愾心を植え付け、戦争を引き起こします。それは儒教の本場だったはずの中国や韓国でさえ離れていったことを見ればあきらかなことです。
日本でも論語を日常の愛読書としたのはプロの戦闘集団であった武士・侍なのです。

今後、もし、儒教や孔子論が再燃してきたとしたら、それは右傾化への警鐘となるでしょう。石原都知事のような世代の方々は特に注意して欲しいものです。儒教にも確かに親孝行、年長者尊敬などの素晴らしい部分はあります。しかし、それは「規律」であって自由ではありません。

しつけや統制は争いしか生みません。むしろ、魂の深奥に潜む「畏れ」こそが人を正しく導いて来ました。その証拠に縄文時代にはいくさがなかったではありませんか。

軍隊の本質にあるものは弥生以降の規律と統制でしかありません。しかし、防衛する人々はそれが必要でしょう。
けれど私たち民間人には必要ではありません。日本人に今必要なのは「規律」ではなく「敬虔さ」と「畏怖」なのです。


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土蜘蛛・国樔・井光など

 投稿者:かわかっちゃん  投稿日:2007年12月21日(金)13時34分47秒
編集済
  以前ブログでも書きましたが、吉野の井光(いひか)ですが、あれは朱沙採集民だったと思います。井戸の中から出て来たところをやられちゃいますが、おしりに尻尾があったと言います。
ブログでは尻尾とは、犬祖伝説の民族衣装ではないかと書いておきましたが、最近、どうも井戸が竪穴式間歩だとして、尻尾はロープじゃあないかと思いだしました。

原始的たぬき掘りの坑道は迷路のように複雑なのです。当然、命綱をつけて入っていたのじゃあないかと・・・。

まあどっちにせよ、国樔の民や土蜘蛛たちは皆、権力者に鉱山開発権利を奪われた民だと思いますから、奪ったのは神武子孫と自称する多氏に違いありません。

となると丹生氏にしたってやはりそういう土蜘蛛たちを使っていた古い先住氏族の長でしょうから、やはり豊後丹生氏も多氏にやられていると思うわけです。吉野もそうでしょう。熊野もそうでしょう。縄文文化は武器による争いがなかったのですから、朱沙の利用方法が渡来とはまったく異なるはずです。主に祭祀、呪術、お墓の塗料などが使用目的でしょうし、卑弥呼の時代でも鬼道に顔料は使ったと思います。

ところが渡来の先進の氏族はそれもあるけれど、主として実用に使ったのだと思うのです。
つまり鉱業、工業としての「産業資源」なのですから、その使用量も使用の幅もまったく広いわけです。当然、より多くの鉱脈情報がいります。ですから、奈良時代になってまだ丹生氏の名前が出ていたのは、滅ぼされた訳ではなく、帰順、同化したことになるでしょう。

それが奈良期の記述を最期に消えてしまうのは、Scapegoatにされた。奈良の空気汚染、河川汚染の要因が水銀であることに気づいた朝廷から水銀氏族代表として追いやられたのではないか?最大の財閥であった秦氏や多氏は、その金銭的、物的貢献度の高さから見逃されたと思うのです。

結局、ソンをするのは朝廷から見て「異人種」の縄文系氏族だろうと思うのです。
大隅隼人など安曇系海人の中にもそうした氏族が多かったのかと思えるわけです。
ただ、蝦夷や琉球人のように、役職どころかまったく官職に現れない氏族たちがいるわけですから、差別は相当なもので、むしろ宿禰になれた隼人は運がいいのだと思えます。

力があり、数が多ければやはり朝廷、為政者だって利用価値が高いわけで、こういうことを考えているとやっぱり『チャングム』みたいなどろどろの権力争いがあったのだと理解しやすいのです。^^ その点、今の現実社会とどこが違うのかなと思えてきます。

風土記などを読みますと、必ず、土蜘蛛や賊がいるからやっつけてくれと頼むのは姫なんですね。なんだか女子学級委員長のような「ちくり」の雰囲気があるなと、我々の世代は妙に納得します。あれなんかもチェサングンが大臣にこそこそいいつけているみたいな感じで面白い。
政治家で言うと社民党の委員長みたいな、ちょっとこの人は机の上でものを考えすぎのような?現実味のない、理想家みたいな?おいおい、そんなこと本当にできるのかよ?みたいな姫だったんじゃないか?^^

地理的に半島は日本に比べて、非常に立地が悪いです。だから日本人より、真剣に周囲との軋轢、関係を考えざるを得ない。日本人のいい加減さはあっちの人から見たら相当むかつくはずです。

怒りっぽいということは、非常に神経質になる歴史があった。深刻だった。何度も異民族にやられた歴史があるということですから、日本のような島国はのほほんしまんちゅなわけで、そりゃあいらいらすると思いますね。申し訳ないことです。

だから縄文人なんか見たらついつい征服したくなると思いますな。
カリビアンみたいな若い奴がへろへろ仕事してると頭たたきたくなる中間管理職の気持ちでしょうか?違うか。たとえが悪いかな?

ところが世界はみんな日本をそう見てるんじゃない?


PS。
犬上君のことですが、あれはおそらく豊後の犬祖伝説一族じゃないか。その心は南方系島人。

2006年11月16日


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6 大化の改新と摂津三嶋の有力者

 投稿者:かわかっちゃん  投稿日:2007年12月21日(金)13時33分47秒
編集済
  藤原鎌足が乙巳の変(大化の改新前の事件)を実行する前に摂津の三島郡に隠棲していたことは前にも書きましたが、鎌足は以前から入鹿誅殺を画策していたらしく、三島隠棲の間に実に様々な人物と隠密裏に交流しています。

落語・「池田の猪飼い」でもおなじみの能勢街道は猪ばかりでなく、丹波篠山の松茸や丹波っ栗も買えるし、さらに丹後半島へ抜ければ海産物も手に入る古代のお買い物ルートですが、能勢山地には妙見山がありますね。服部緑地のあたりなどは地名から呉はとり部の居たところかと思えますが、箕生なども大阪唯一の銘酒醸造場なんかあって渡来文化の匂いがしますね。ここにもおそらく鉱物氏族の多氏がいたようです。

妙見山あるところに鉱山ありなのですが、たたら跡や間歩、炭窯、鉄滓などあるのではないかと思います。三島郡にもほど近いので、なんらかの関連がありそうです。
三島滞在中に鎌足はのちに孝徳天皇となる軽の皇子と食事などしているそうです。これが後に天皇となる布石かどうか不明ですが、鎌足はここでかなりの人物に接触したようです。あとのなって三島が嶋上郡家になるのもここが鎌足にとって非常に重要な場所であったからだと思えます。

ちなみに軽はこの時、三島にほど近い有馬で療養していたそうですから、生まれた子どもに有馬皇子という名前がついたようです。乙巳の変の協力者の中に佐伯部子麻呂がいます。彼は多氏佐伯氏の子飼いの部下ですから、やはり鉱山氏族の軍資金と協力が大化の改新にもかなり影響したのではないでしょうか?

吉志の件ですが、一族の中に猪出という家長クラスの人がいます。ところがこの猪出という名前は筑前の国川辺の肥君猪出で、吉志の娘・宅蘇吉志橘姫というのが肥君猪出の母なのです。肥君というと今の佐賀県あたりの首長ですから、難波の吉志忌寸の祖先はどうやら九州の多氏と婚姻関係にあるらしいです。以前装飾古墳を見に筑前の王塚古墳、若宮古墳を見に行きましたが、もしかしたら吉志もあの辺の出身かも知れません。

また中大江皇子の妹に間人皇女がいますが、この女性は丹後と非常に縁があります。丹後半島の竹野町には間人の地名があり、彼女が「滞在」したからだと言われています。ここは竹野姫でも有名な古墳があるところですし、手前に海人文化の栄えた宮津市もあり、浦島伝説、大江山伝説もこの周辺にありますから、橋立の籠神社とともに海部氏や多氏に関係があるでしょう。
しかも丹後は水銀の多い土地ですし、丹生津姫の神社もあるのです。

乙巳の変と鉱物財閥多氏は非常に関係がありそうです。

手元にあります小学館『日本の歴史 古代豪族』の巻末には天武朝の氏姓一覧があります。
この中に多臣は朝臣、出自神武天皇、左京皇別とあります。神武を出自とするということは非常に古い氏族ということか、あるいはもしかしたら天武にかなりのゆかりの深い氏族なのかと思えます。大春日氏や藤原部造でさえ孝霊や崇神というあとの世代の天皇を出自とするのに、多臣だけは神武なのです。神武を出自とする氏族名を見て行きますと、それほど数はありません。多臣以外では茨田連、小子部連、小泊瀬造だけであり、それは皆、なんと多氏の同族と言われる人々なのです。

これはどういうことなのでしょう?
多氏は阿蘇から来たと言われるのに、宮崎から来た神武天皇から出たと書かれているのです。
こうなると阿蘇多氏こそが神武直系の最も古い氏族ではないのか?という疑問が浮上しそうですね。

それだけ壬申の乱でも彼らは功績があったのでしょうが、不在の天皇と言われる神武の伝承は阿蘇氏が北上東征してきた事績から作られた可能性がありはしないのでしょうか?!そして「あそみ」という役職名はまさかとは思いますが「阿蘇の臣」から来たのではないだろうな?と考えさせられてしまいます。

同じように多氏同族と言われる他の氏族はどうなのでしょうか?
まず大三輪の君は大和神別・三輪氏出身で、まったく皇族権威的な書き込みはありません。
さらに佐伯連は大伴氏出身。雀部臣、阿部臣が孝元天皇。
どうやら上記四者は多氏同族の中でもかなりの近親関係のようです。
では他の多氏から出たと言われる氏族はなぜ違う出自としたのでしょう?理解できませんね。

その他おや?と思った氏族を列挙します。

羽田(はた)公・真人・応神天皇
秦連           漢人
山背臣・連・直     中臣氏
鴨君・胸方君      三輪氏
伊福部連         尾張氏
稚犬養連        尾張氏
海犬養連・凡海     阿曇氏
犬上君          景行天皇
大野君          崇神天皇
菟道連          物部氏
弓削連          その他の氏族??

とくに最も面白いなと思ったのは、物部氏の大臣クラスが物部連朝臣をはじめとして宿禰11氏族、連8氏族と非常にたくさん残っている。つまり守屋死後も物部氏は最大派閥であったということなのです。本当に物部本宗家は守屋の死で壊滅したのでしょうか・・・?かわかつ、やはり守屋の事件はでっちあげじゃないのかと疑いたくなります。^^

つづく
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5 諏訪の風祝の真の意味はなにか?

 投稿者:かわかっちゃん  投稿日:2007年12月21日(金)13時32分44秒
編集済
  2006年11月10日追補

1 上社前宮に祭られた守矢山の神霊が最もやっかいな祟り神である「風」。これが最重要の神。

2 それを治めるために上社本宮があり、阿蘇氏が大祝として入った。

3 薙鎌神事は風を治める儀式で、風は樹木と同じ「木気」であるから風のかわりに樹木に鎌を打ち込んで鎮魂する。それを執り行う大祝もまた蛇で木気の一族。ゆえに阿蘇氏は諏訪明神を祖とする出雲の蛇の一族。要するに出雲の意宇の出雲臣が阿蘇氏だろう。

4 諏訪湖周囲に置かれた七つの石、それと薙鎌は「金気」。金剋木。

6 最後に下社二社に記紀の神で、同じ蛇の神格を持つ建御名方を置いた。二重の鎮魂。

7 ミシャグジーは蛇。下社の大注連縄も蛇。拝殿に置かれた神蛇と呼ばれるとぐろを巻いた注連縄こそがミシャグジー(赤蛇)。

8 大祝の即位式は楓(風伯)の木の下で行われていた。楓は鶏冠と書き、すなわち風の神の宿る木。
9 諏訪明神の正体は風。

10諏訪大社4社は前宮の風を蛇が押さえる鎮魂形態。

これは日本全土の問題である風を、日本の中央にある諏訪に鎮魂した事業。

最初の鎮魂儀式は持統五年八月二十五日。辛酉。

酉は風水で金気。ゆえに薙鎌も鶏の形。

辛も金気。

風神は木気。

ゆえに大御立座神事は相乗相克で金剋木であるから、木気の風を金気の石や薙鎌で治めるのが主目的。
風とはすなわち台風。台風とはスサノオ、スサノオとは物部守屋。つまり蛇神大物主とは出雲族物部氏と縄文人長髄彦・・・物部一族のことである。

通常、風神の祭りは4月、巳、火気、と7月、申の金気の始まりの月に行われたが、持統五年は天候が異常に不順だったため、台風の吹く異例の8月に急遽執り行われたと考えられる。
火気と金気によって日照と降雨を牛耳るのが風神鎮魂。これは国家規模の「風穴塞ぎ」である。
したがって農耕儀礼と言えるが、わからないのは多氏阿蘇大祝である必要性である。
神長官守矢も阿蘇氏だとすると、本来、阿蘇氏の役割は風の祝だったことになる。大三輪氏を見てもわかるが、多氏は蛇の一族である。蛇とは大物主の神格であるから、三輪山もやはり同じ鎮魂となるだろう。物部守屋も風だということになる。

先住民縄文の一族(ながすねひこ)を治めていた物部氏であるから、諏訪の洩矢を治めた阿蘇氏と物部氏は同じ祭祀形態で鎮魂されたことになるのか。

それはもしかしたら多氏=秦氏が物部と縄文の神霊を出雲と三輪山と諏訪に「重ねて封じ込めた」ことになるのではないか?秦氏こそが藤原氏か?!

藤原氏=秦氏=多氏か?

さて、出雲の意宇(島根県東部)には秦氏と多氏が同居した。
ここがどうやら問題の場所のような気がしませんか?^^

同じ鉱物採集を氏族繁栄の中心に置く二つの氏族が、同じ利害関係で結ばれることは少なくありません。今で言えばはやりの企業合併?

出雲の神職である出雲臣はどうやら阿蘇氏のようです。
また大和大神神社の大三輪氏も阿蘇氏だったようです。
秦河勝は多氏小子部の管理者です。
となるとまず第一に秦氏は多氏の管理者。
ということは日本最大の財閥になります。やまと一の大企業です。それが政治でもナンバーワンになれないはずはありません。

日本の祭祀は秦氏が牛耳っているのですから、祭祀と政治が同じ土俵にあった古代において、秦氏こそが為政者となっているのが当たり前なのに、文献にはまったく記載がありません。

さてさて・・・・?

ここで非常に気になるのが中臣氏から出た藤原氏、とりわけ初代藤原鎌足の動向です。
「藤原」という名前は実は鎌足一代のみに与えられた氏姓なのです。
二代目からは名乗れなかったはず。相撲の一代親方みたいですけどね。
ところが二代目不比等は藤原を名乗って、祭祀者としての中臣氏とはっきりと区別しました。ごり押し?
いや、これこそが実に大きな大変革だったと考えられます。おそらく史上初めて不比等は、摂政としての藤原家を全国的に売り出したのです。それは初めての祭政分離だったと言えるかも知れません。

では父親鎌足。乙巳の変の直前まで、父・鎌足はどこで何をしていたかです。
鎌足は摂津の三島郡に隠棲していました。
その三島が問題です。
なぜ三島なのか?なぜ摂津なのか?
一体三島に何があるのでしょうか?
大阪の阪急電車の各停に乗ってのんびりと京都まで行ってみましょうか。

京都の天王山がある大山崎の手前までに高槻、茨木がありますね。
あと気になる駅名は?
岸部があります。
岸部は吉志部です。そう難波の吉志がいたところです。この辺りから茨木までが三島郡でした。今、もう少し北の方が三島郡として残っていますが、おそらく鎌足がいたのは高槻市~茨木市の周辺でしょうか。

私はここに日本でも大きな力を持っていた海人族と渡来勢力が同居していたと見ています。
ちなみにここで最初に書いた中国の始祖構図で、山、岩、石、鉱物が水神、水、海と交わる系図があったことを思い出しておいて下さい。多氏は鉱山開発者、それが海人族とえにしを結んでいますね。あらに秦氏はぱた・・・海から来た氏族で鉱山にも関わっている。しかも宗像や安曇という海人族とも関わる。
多氏を金気の氏族とすると、秦氏を水気の氏族とする考え方もあります。
とすると多氏と秦氏は神農氏の系譜に移し替えられはしまいか?^^

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

このお話はやがて百人一首の謎の解明にもなりそうな気がしています。
百人一首の順序と大山崎の水は大いに関係があるようです。それは古代の二大勢力の相克がずっと続いてきたという仰天すべき史実を解き明かすことになるかも知れないのです。
物部守屋の怨霊は今もこの国を動かしているのかもしれません。
大山崎には水無瀬という、ある歴代反逆者のゆかりの場所があります。

つづく
なお、この記事に関しての続編はここへ書き加えるつもりです。



2006年11月10日追補

摂津国三島郡だった今の茨木市には三島溝咋という神様を祭る三嶋宿禰という氏族がいました。ここに三嶋鴨神社という神社があり、大山積と八重事代主が祭られています。
大山積(大山祇)は最初にニニギの命に娘であるコノハナサクヤビメを嫁がせた霧島の神様ですから、もともと阿多の隼人や海人安曇族の神だと言っていいでしょう。この山の神と安曇の綿津見は海と山で対応しています。これだけでも阿多の隼人と安曇のあいだに大きなえにしが見えています。

事代主は出雲の大国主の長男で、国津神の中ではちょっと異人的な神。しかもそこには蛭子や漁師のイメージがあります。この神を大和に慰霊しているのはあじすきたかひこね=鴨大神=たかおかみなのです。
葛城の鴨氏が祭っている。

その二人の神が三嶋宿禰の手で三島地方に祭られたのですが、ここから三大三島として、伊予の河野氏が奉仕する大三島神社と伊豆の安積氏が奉仕したと思われる三島大社が勘定されました。
ですから摂津三島の三島鴨神社は三島信仰の大元だと神社は言っています。

ということは阿多隼人、河野、安曇、鴨の四大氏族がここでは合体していると見ます。

また吉志氏はもともとは
「大彦命が蝦夷の征伐に派遣され、兎田の墨坂(奈良県宇陀町)を通りかかると、嬰児の泣き声が聞こえたので付近を探してみると、一人の嬰児が棄てられていた。そこで大彦命は兎田の弟原媛を乳母として養育され、この児は立派に成長し、大彦命のもとに送り届けられた。大彦命は自分の子として愛育し、得彦宿禰と名付けた。これが難波忌寸の祖である」といいます。

吉志氏は吉志舞いという舞いを朝廷に見せるという約束で帰順したといいますから、秦氏の秦舞いなどと同様、舞いを踊る氏族は朝廷に帰順した一族と見なせるでしょう。四天王寺舞いも同様に、物部氏が帰順した証しだと言えます。そしてその管理者は秦氏でした。おそらくここから秦河勝が申楽の祖と言われるのかと思います。四天王寺舞いは伎楽の基本だったと思いますし、この舞いで音曲を担当したのは今の東儀さんたちのご先祖である秦氏なのです。

さらにこの吉志舞いを管理したのは大阪阿倍野の安倍(阿部)氏です。阿部氏から安倍晴明が出てきたように、後に彼らは土御門という陰陽師の大集団へと進化します。そして奥州阿部氏という一族もまた、奥州秋田氏と同族科して奥州藤原氏を補助してゆく大氏族になりました。

この中に高橋氏という古い祭祀者一族がいます。高橋氏は「たかはしら」から来たようで、どう見ても神職の氏族だと思っていたら、案の定、新潟の弥彦神社は高橋氏が奉仕していました。

吉志の配下にはなめし革の得意な吉志人たちもいたそうです。私は吉志人たちは秦氏の120部の職能民たちの中に含まれていると思っています。
もちろん阿部氏の家臣やや高橋氏の家臣達にもその可能性があります。

こうした三島の渡来人たちが祭った三島鴨神社の摂社に、実は武甕槌が同時に祭られているのです。
つまり・・・三島宿禰、秦氏、阿部氏、高橋氏などと藤原鎌足は大きく関係を結んでいる。もっと言えばここで同族にならなければ「大化の改新は実行できなかった」と思うのです。

そして三島の茨木地名と鹿島の茨城はやはり鎌足で大きく関連するのだと考えられるわけです。

鹿島にも多氏大生部大や佐伯氏、坂合部がいて、大生部の大という管理者は常世の神事件で秦河勝に叱咤されています。つまり多氏は秦氏の管理を受けていたと言うことになります。

秦氏とは大氏族連合であったことになりますね。

その秦氏が、では中臣氏を取り込んでいって、藤原氏になったのでまないのか?という空想は許されないでしょうか?

日本書記自体がライバル物部氏の力を奪ったという神武東征から始まって、厩戸の皇子という人物から想像したと言える聖徳太子・・・天皇の系譜にある直系の人物に滅ぼされた守屋の死を、あれほどはなばなしく、かつ劇的に描写したこと。そして物部氏を表すニギハヤヒとその部下長髄彦たちを出雲に大国主として祭ったこと。その前には大神神社に多氏大三輪氏の祭祀者である大阪堺の須恵器職能集団の長・おおたたねこの手で鎮魂したこと。さらには、それでもまだ祟るかも知れないと諏訪大社にまで「荒ぶる風」洩矢の神として鎮魂したスサノオの荒御霊。それどころか伊勢神宮には天照大神という巫女神が大物主を鎮撫する国家事業としての「祭祀の形態」を祭り上げたこと。それだけでもまだあきたらずのちの秦氏の稲荷の御魂である宇賀の御魂に豊受大神という卑弥呼のイメージを重ねて外宮として「監視」させていること。
そして東国から長髄彦にも相通ずる蝦夷たちを帰順させるために鹿島と香取に大神宮を建てたこと。その上にはあとから阿蘇の地震の神であるナマズの神(建磐龍)を持ち込み、上から金気の要石を置いて塞いだこと。

物部氏には剣=武力の一族だという偽のイメージをかぶせていますが、それならば中世武士団たちはどうして石上神宮を武士の鎮守とせず、あえてはるかに遠い新しい神八幡をあがめたのでしょうか?おかしいではありませんか?いくら守屋が負けたと言っても、物部は「もののふ」という武士を意味する言葉の大元だと言うではありませんか?

変です。変ですよ。^^

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

閑話休題

百人一首です。
もう随分前になりますが、小倉百人一首の和歌の順序が、それまで歴史の中で簒奪の憂き目に合い、流刑されたりした無念の親王たちの和歌がちりばめられた怨念の和歌集だという説を読んだことがあります。

そしてその和歌を順序よく並べると、ある一幅の絵画になるのだ。それはなんと平安京から京都市南部、枚方市の北部にある宇治や大山崎にまで広がる地形図となり、最後に、編纂者もまたその一族であり、小倉とは鎮魂の意味があるというのです。

そして摂津との国境にある大山崎の水無瀬川という川こそが最終的に彼らの隠棲地となるのだと・・・
凄い説でしょう?

けれど大山崎から天王山を越えた茨木周辺に三島鴨神社があり、そこに乙巳の変というクーデターを起こす直前の藤原鎌足が一時的にいたことを考えてみますと、なにやらにわかに現実味を帯びてきたような気がしてならないのです。

この問題をやり始めるとおそらく、内容が南北朝の争いや源氏と平家の争い、あるいは将門、純友の反駁などまで言及することになりはしないかと、ちょっとこのHPの趣旨から逸脱するかも知れないので置いておいたわけです。

ただ、日本の歴史が武力と生産力の向上を目指した歴史だったという前向きな発想をすればですね、明治時代に及ぶ長いスパンで物部氏と秦氏・藤原連合という巨大な相克がさまざまないくさを創り出す大元にあったのではないか?と考えつくわけなのです。

物部氏は、ニギハヤヒの時代に一回、守屋の時代に一回、歴史書では都合二回も時の権力者にやられていますよね?こんなに何度もやられてしまうのは、熊襲、隼人、出雲、蝦夷の他にはないのです。しかも彼らと違うのは物部氏は彼らの支配者であったということです。それも列島で最初の大為政者でした。

そのあとから入ってきたのは渡来人でした。

豊前には中臣村がありました。そこに中臣氏の祖神である天の児屋根という神が嘯吹八幡という神社に祭ってあります。行橋市草場というあたりの近くで豊前市に含まれます。これは「うそぶきはちまん」と読むのです。ここには山之内神楽や山人走りという祭りがあります。山内和豊の山之内です。あの方秦氏でしょ?八幡ですからここには八幡神と武内宿禰も一緒に祭られています。

いったいなにを嘯いたのかと・・・?
そこは秦氏の祭る神の国である豊前のど真ん中なのです。すでにここで中臣氏と秦氏は関係していたのです。

そして日本書紀で中臣氏の神・天の種子命と結婚したのは他でもない宇佐の豪族・菟沙津姫なのではありませんか?では宇佐氏もまた秦氏だったのでしょうか???

訂正しました!宇佐氏と結婚したのは同じ中臣氏の天の種子でした。安心院の妻垣神社の社伝でもそうなっていたのを忘れていました。どうもこの頃記憶が・・・。物忘れは非常にいいのですけれど・・・同じことか。
なおこの件はダダサイトの管理人さんが指摘してくれました。ダダさん、感謝します。

私が思うに、こうした氏族連合は物部氏が先にやっていたのだと思うのです。多氏も最初は物部氏の管理下にあったのではないかと。ちょうど天の香山や尾張氏、やたからすの鴨氏ら熊野の一族が神武のために寝返ったように、磯城の県主たちもまた物部氏から誰かに寝返ったのではないか。そういうことは今でもよくある話です。筒井順慶や小早川のように、形勢をを眺める「洞が峠」が古代にあってもなんらおかしくない。
多分、中臣氏もそうじゃないのか?

つづく


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四天王寺に祭られた守屋の霊魂は今どこに?

 投稿者:かわかっちゃん  投稿日:2007年12月21日(金)13時31分31秒
編集済
  谷川健一氏は四天王寺は守屋の霊が祭られたと書いています。
私もその意見を読む前からそう思っていました。
そして本当に守屋はいたのか?と書いてきました。
守屋の死こそが日本書紀の最も大きいイベントだったのではないか?

なぜ香取というはるかな東国に物部氏を祭る神社を建てたのか?

鹿島は道の口です。
東国への入り口が茨城県なのです。那珂郡から千葉県犬吠埼周辺は昔、すべてが砂州でそこは海人がいました。海上(うなかみ)郡といいます。そして先に書いたようにここに多氏の眷属である佐伯氏、印旛国造・那珂国造などの多氏が入っています。
当然、多氏と来れば水銀があるから・・・。

鹿島神宮の武甕槌は地震の神様です。
ナマズの上にちゃんと乗っています。このナマズが武甕槌の足許に置かれたのはおそらく中世から江戸期の間でしょう。ではなぜナマズなのでしょうか?
本来、武甕槌こそが地震の守護神だったはずでしょう。吉野裕子氏は甕と「ひらか」が蛇を入れる容器だと書いています。

『常陸国風土記』には「茨城の里にぬか彦、ぬか媛という兄弟が居て、妹が名も知らぬ男と交わり小蛇を生んだ。それを神として、「成長の順に」(脱皮)坏・ひらか・甕に入れて飼育したが、その蛇を育てたひらかと甕は今も村にあってひきつづき祭られている」とあります。

「ぬか」とは先に書いたようにネコ流し淘汰法のネコです。それは砂金、砂鉄を指します。つまりぬかひこ兄弟は多氏、鉱物採集者です。

その二人が蛇を育てます。蛇とは物部守屋、大物主、ニギハヤヒ、鉱脈ではないか?
炭坑夫たちは蛇は百足とともに鉱脈への筋を指すのです。それは多くが噛む蛇マムシでしょう。マムシは雷です。そして雷はまたいかづちであり、甕なのです。ひらかは「へつ」とも言います。物部氏を祭る香取神宮の神は「ふつのみたま」という剣=鉄の神で、この二人が出雲に国譲りに行っています。マムシは天皇の名前にもなっています。たじひのみずはわけ。丹比とは丹生が出るところでしょう。愛知県にも丹羽氏がいてこれも多氏です。

愛知県のあゆちの郡、カタワの里にやはり兄と妹がいて、雷に打たれた妹のかたきを兄が討とうとします。これも鹿島の話と関係があります。愛知県の尾張地方は海部郡であり、高師小僧の名前の元になった高師の地名が中央構造線の近くにある入り江に残っています。しかものちには全国のサンカの分布でここから北へ諏訪までの天竜川沿いは最も多かったところです。さて?

これこそが多氏が行った道、来た道ではありませんか?

ナマズが祭られるようになるのは多氏の伝承からに違いありません。というのは阿蘇国造神社には大昔から地震を押さえるナマズのミイラがある鯰社という摂社があるのです!
もともとは阿蘇山、久住山という巨大な活火山を抱えるこの地方が火山活動によって鳴動したからでしょう。それが鹿島の武甕槌の上にあとから迷信として、民間に受け入れられやすかったためにおっかぶされてしまった・・・違うでしょうか?

建貸間の命というのが鹿島の多氏たちによって祭られている。聞いたこともなかった神です。
それに鎌足神社の床下には白蛇を刻んだ石が置かれています。
息栖神社は八幡神社です。摂社のなかには蛇を神体とするものがある。
息栖神社は那珂郡の娘と海上郡の男の恋物語がある。これもならぬ恋です。それは寒田という地名が双方にあることから、寒田郎子という名前を創り出しています。その佐牟田の神は神奈川県の秦野市に祭られています。寒田神社です。

大分県犬飼町にも寒田地名があります。こっちはそうだと読みます。ここに西寒多神社があります。大分市の西寒多神社の前身だったと言いますが、その西寒多神社は元々は大分(だいぶ)社といいました。もうひとつ大分社があって、そこには景行天皇の船つなぎ伝説のある碇山があり、滝尾百穴という横穴古墳群がありますし、郷名である下郡は、祖母山の鉱物神・建男下凝尊からきています。縄文時代の飼育した豚の頭蓋骨もでており、地名には津守があるのです。大分川という二番目に大きい川の沿岸です。それを遡るところには大分の君の大古墳・御陵古墳や遺跡が沢山出ます。
昭和20年代頃に多くが開発で壊されたことは非常に非常に非常に!!残念なことでした。

さて、天竜川を阿由知郡から北上すると伊那谷を抜けて諏訪に行き着きます。
諏訪には守屋を祭る人々がいると谷川氏が書いています。

そう、諏訪は物部氏を「鬼部」として祭ったのです。
物部守屋はあまたいる鬼部・・・漏矢も、八面大王も、両面宿儺も、蝦夷も、隼人も、恵比寿も大国主も、建御名方も、すべて追いやられた者どもの代表として、日本書紀のなかでほろぼされてしまったのではないでしょうか?それは物部氏がこの国で最初に大和に入り、近畿地方を手にしていた氏族だったからです。あとから来たのは誰だったかと考えれば、神武東征もとても理解でき安くなります。

物部氏とは守屋=鬼=モノ=被簒奪者を鎮魂する氏族だったのではないでしょうか?
そしてそれを本当に滅ぼす必要があったのは蘇我氏だったのでしょうか?

ちなみに蘇我氏と波多氏は同じ武内宿禰の子孫と新撰姓氏録は伝えています。
その中には、葛城襲津彦という、秦氏120部の民を迎えに行った人物もいます。


2006年11月8日編集   かわかつ   つづく

4の2済州島へ http://6126.teacup.com/kawakatu/bbs?M=ORM&CID=25&BD=14&CH=5

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4の2 朝鮮海峡の済州島は流刑地だった

 投稿者:かわかっちゃん  投稿日:2007年12月21日(金)13時30分25秒
編集済
  NHKテレビの『大長今』(邦題『宮廷女官チャングムの誓い』)、私大好きなのです^^
食いしん坊としましては宮廷料理が山ほど出てきて、しかもレシピや作り方まで解説があるし、チャングム役の女優さんが日本の黒田福美さん似でなかなか品がいい。

で、彼女が無実の罪で送られたのが済州島(チェジュド)でしたよね。
NHKの解説が非常に有り難いのは、ちゃんと済州島の歴史も最後にやってくれること。ビデオでも確認しましたが、あそこは流刑者が送られていた。

世界で言えばオーストラリア島のような場所ですが、それとは全く別に海女さんの島でもある。
実は知りたくない過去ですが、日本が第二次大戦の頃、済州島の海女さんたちの多くが日本に強制的に連れてこられました。今でも、紀伊半島周辺などにたくさんの済州島の海女さんが海に潜っておられます。漫画家の白土三平さんは『カムイの食卓』の中で、彼女たちとの親交を描いています。
この方の漫画には非常に興味深い道教的視点が盛り込められていて、子どもの頃から大好きでしたが、この本は漫画ではありません。

日本の海女さんと言えばまず壱岐対馬があり、熊野や伊勢があり、そして九州にもたくさんの海女さんや海士さんがいます。そこの地名が非常に共通していることもいずれ書きますが、壱岐の勝浦と熊野の勝浦は同じ「いさなとり」・・・鯨漁で同族なのをご存じでしょうか?

鯨を食べる文化は日本だけだと思われていますが、そうでもありません。
鯨はかつて非常によく捕られていました。今でも猪を「おかくじら」とも申しますから、とてもポピュラーな海産物だったと思います。

壱岐では海女さんのいる浜といさなとりの浜は別々に孤立しています。
つまりどうやら別族のようなのです。古代にもおそらく壱岐から熊野へくじらとりにいったのではないか?それは安曇族だったのではないか?

安曇族は入れ墨をします。宗像もそうだったそうです。
この二つの氏族はどう違うのかよくわからないですね。
しかし、日本書紀で入れ墨をするのは久米部です。目の回りに入れ墨をしていたので姫様がなんでおまえの目はそんなに怖いの?という歌を詠んでいます。

この久米部ですが、久米歌というのがある。蝦夷征伐の時、蝦夷が強いと言うけれどおれたち久米にはかなわんじゃないか・・・「うちてしやまん」という戦時中のスローガンにもなったエピソードです。
そしてその海軍が持ち出してくる軍神が「綿津見」ですよね?
「わだつみ」・・・長野県安曇野の穂高神社にこの神が祭られており、境内にはなぜか安曇一族の伝説的英雄である阿曇比羅夫の銅像がたっています。まるで大魔神みたいですが、彼は天智天皇の白村江の戦いにかり出され、素晴らしいいくさをしますが、残念ながら敗北の将になりました。

久米と安曇にはこうした接点があり、おそらく同族ではないかと言われます。
聖徳太子の弟である久米皇子が久米を名乗っているのはおそらく、九州の久米部から出たウバに育だられたからではないでしょうか?それで九州に警護に行かされた。そこで死んでしまいますね。あの辺のお話はちとできすぎている気もします。
しかし聖徳太子もなんらかの意味で九州の安曇や久米と関係があったかも・・・

最初に多氏や丹生氏の痕跡があると書いた大分県の臼杵市と佐賀関半島の間に丹生湾と言われる今の臼杵湾があり、そこに海女さんがいるのです。今でもちゃんとアワビやサザエやウニを採っています。その佐賀関周辺は九州の中央構造線の入り口で水銀がとれました。日鉱佐賀関があって銅も採れるし、海部の石棺の材料となった緑泥片岩も採れます。

豊富な鉱物や石が出る。そこに海人たちがいて、椎根津彦神社と速水吸比売も祭られている。比売とは水銀の閼伽を例えたもので、もともと九州には比売伝説が多い。別府湾を挟んで国東半島には姫島がありますが、ここの神様はツヌガアラシトの妻だった比売許祖です。この島は黒曜石がでます。また宗像方面に行くとやはり姫島がありますし、内陸の日田や玖珠には五馬比売、速見郡に速津比売がいました。そして宇佐には菟沙津比売、山口のサバ津からはサバ津比売、さらに香春町のそばには神夏磯比売も祭られています。
なにより秦氏の本願地香春神社には神功皇后のモデルともなる辛国息長帯姫大目命(からくにおきながたらしひおおまのみこと)が、近くには機織り伝説を持つ四人の半島の比売のうち呉媛のお墓があるのです。豊後、豊前からそれぞれ海人と秦氏が近づいていくとしたら、ちょうど真ん中にあるのがなんと宇佐神宮なのです。

そして宇佐神宮には辛嶋というすぐりの氏族がいて、彼らは秦氏の出身者です。
またのちに奈良から送り込まれてきた大神(おおが)比義という人物は宇佐に八幡信仰=鍛冶神を植え付けました。「比義」という名前は「日置」「へぎ」となんらかの関連がないでしょうか?

彼の別名は金の鷹でした。
八幡神も金の鷹です。そしてその姿は翁あるいは童でした。何人行っても喰われてしまうというのです。そこで比義という人物が参りますと、鷹が応神天皇に変化して、「わたしはこれから日本の神となろう!」といったというのです。これから宇佐は八幡のメッカになります。

大神氏は東大寺別当になる近江のうばそく良弁和尚と知り合いだったようです。

良弁は行基の兄弟弟子です。そして行基は大阪八尾の出身。しかも同じ八尾には宇佐神宮に大きく関わることになる例の弓削の道鏡がいます。

弓削となるとこれは物部守屋のあだ名ですし、八尾周辺は実は守屋の城がありました。
それで行基達うばそく連合は守屋の復権に画策したという凄い説があります。
その延長線上に讃岐の空海がいます。

真言密教はその開始を熊野などの水銀採集からはじまったと言われています。スポンサーとしての水銀採集民・・・それが阿蘇多氏なのです。

豊前の秦氏居住地には多氏の痕跡が見いだせないと書きましたが、本当のところ、多氏とは秦氏だった可能性はないのでしょうか?そして秦氏はやがて平安京遷都の際に藤原小黒麿に妃を供出しています。秦氏と多氏は日本の二大財閥です。神社も沢山持っていて、日本の祭祀をも牛耳っている。その二大氏族のうちの秦氏は小子部や大生部の管理者でした。

ということは?
陰に隠れて表の歴史に出てこない秦氏こそが藤原氏のフィクサーではないのでしょうか?


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3 天武天皇の遁甲(とんこう)術とはなにか?

 投稿者:かわかっちゃん  投稿日:2007年12月21日(金)13時29分2秒
編集済
  天智天皇の弟と書かれている天武天皇は、同時に天皇呼称を最初に使ったと思われる持統天皇のだんなです。
その天武天皇(おおしあまのみこ)の得意技に天文遁甲という謎の秘術があったと日本書紀が書き記していますね。

天文とは妙見で、占星術やまさしく天体の観察をして記録を取ってきたものに風水をあてはめて吉凶を占うことかと思います。小林惠子氏のように、そこから中国、朝鮮、日本が干支の決めごとによって歴史書ができているのだという方もいます。

では遁甲って?

吉野裕子氏は『陰陽五行と日本の民俗』の22ページに「正史に記載の暦本の初めての渡来は、欽明天皇一四年の紀元五五三年。降って推古天皇一〇年の六〇二年には百済僧観勒による暦本・天文・遁甲方術書の移入があった。」と書いています。
つまり遁甲も占星術も暦も百済の僧が伝えたもので陰陽五行の秘法であったのだと思います。

現在の遁甲が正式に日本に伝わるのはずっとあとの明代だということですが、『隋書』にはすでに「遯甲」という記載があります。
要約すると方位の吉凶を占う方術であるそうですが、詳細はわかりません。
天文を静、遁甲を動の方術と言うそうですが、我々はそこまで知らなくてもいいでしょう。要するに方位やら記録によってこれまでの王朝の失敗成功が統計的に分析されてきたのが伝えられてきた、いわゆる「統計学」にうらないがないまぜになった?学問だったようです。

言わば、コンピューター占いとでもいいましょうか。

こういうものをなぜ奈良の天武天皇が知っていたのか?
その裏には壬申の乱で天武側をおおいに助けた阿蘇の君、火の君、大分の君・・・そう、多氏と海部につらなる一族の影響があったのではないでしょうか?
「おおしあま」という幼名は当時母方の実家で子を生み、子にウバのいる地方名をつけるという慣習があったためです。ですから天武は海部に育てられた。海部と多氏は同族でしょう。

それは言い換えれば天武が日本のプレ王朝とも言うべき倭人の国・九州と非常に深いつながりがあったということにならないでしょうか?

翻って、前の時代の聖徳太子。
10人の言葉を同時に聞き分けたという太子の言い伝えは、どこかしら八つの耳を持つという諱の多氏の祖神とつながりはしまいか?

「八」とはなにか。
谷川健一は「八」とは仙薬生成に必要な八種類の基礎鉱物だと書いています。それを「八石」と言います。
もちろん八には多いという意味も、また末広がりという後の着想も含まれています。縁起がいい数字。多くの氏族を管理した多氏にぴったりの神名ではないでしょうか?

鉱物は福をもたらす金のなる木です。だから金や鉄は「ふく」「おふく」なのでしょう。
お多福にしても「おかめひょっとこ」からの拡大発想で生まれたのでしょう。ひょっとこは「火男」がつづまった方言ですね。火の男とは要するに鍛冶屋、たたら師ですね。



小子部スガルと阿蘇の鬼八

阿蘇の神八井耳命の御子である建磐龍命は弓矢の名手でした。
阿蘇には彼が的にした岩が残っています。
そしてその矢を拾う係がちゃんといました。鬼八と言います。
体が小さくて小鬼のイメージがあります。体の小さい鬼というものは世界中で炭坑夫を妖怪・精霊にしたてられています。白雪姫と七人のこ0ともそうです。また出雲の少名彦名も小さい神ですし、小子部も小さいのではないか?反対に大生部や大国主は大きいイメージ。同じ炭坑夫、探鉱師でも管理人は大きいのです。

鬼八はいつもみことの矢を拾いに走っていました。とても足が速かったのです。しかしある日。あきあきしてつい、矢を足でみことに蹴返してしまいました。命は烈火のように怒って、鬼八を追いかけました。驚いた鬼八はあわてて祖母傾山をつきぬけ、高森から宮崎県の高千穂まで、一目散に逃げてゆきます。そして矢部というところでは屁をひったので矢部というのだそうです。^^

その鬼八の塚がちゃんと高千穂神宮の近くにあるのですよ。
その写真はHPの隼人と曽の君、景行天皇の足跡のページに載せています。また阿蘇の的石の方は阿蘇の君のページに載せています。
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また不思議な話ですが的石からほど近いところに数鹿流の滝という名瀑があり、そこは鷹狩りに追われたスカルという鹿が落ちて死んだところだと言うのです。阿蘇には弓矢の伝説が多いですね。

そのスカルという名前を持つ人物が日本書紀に出てきます。
雄略天皇に雷を採ってこいと命じられ、なぜか子どもをたくさん連れてきてしまうまぬけな男、小子部スカルです。このスカルは「雷」という字で表現されていますが、熊本弁では蜂のことを「すがる」と言うのです。そして阿蘇氏が言ったところだという長野県のある地方では「すがれ」と言います。蜂は指すと雷に打たれたようにショックで死ぬことがありますね。それは百足やマムシと同じです。

蜂というのは鉱脈のことです。
京都太秦の広隆寺は葛野にありますが、葛野は楓が多く生えていたそうで、やがて「楓野」になりました。そしてスズメバチがその樹液を求めてたくさん集まるので「蜂岡」とも言われたのです。楓の多い土地には銅鉱床などの鉱脈があるそうで、楓の木は鉱脈を探す「指標植物」というのです。

秦河勝が建てた広隆寺。秦酒君が建てた大酒神社が今残っているあたりです。
秦一族は豊前でも香春岳の竜骨(銅を含んだ恐竜の化石)を採っていました。今でも香春採銅所には鏡造りのあとがあり、長光というおうちでは銅鏡を造り、最近では宇佐神宮へ奉納する儀式を再開しました。秦氏は主に銅開発氏族だったのでしょう。

古い文化が残るという豊前にいた秦氏こそが銅鐸の制作者なのでしょうか?
秦氏は鴨氏をはじめとする神社祭祀も管理していたと思えます。
秦氏が帰依するという稲荷神社、八幡神社の総数はなんと全国で9万社にのぼり、それは全神社数のなんと90%にもなるのです。

つまり日本の神社は秦氏が造ったと言ってもいいのです。
藤原氏が作った条例を全国に実践していったのは、他ならぬ秦氏であり、鴨氏は京都を担当した地方神職に過ぎない可能性もある。京都では鴨神社が二つありますね。上鴨と下加茂。
一方はを水の管理者である鴨脚家です。こう一方はおそらくですが鉱物を管理する氏族のはずです。だってやたのからすが祖神ですから。
それは奈良の葛城氏、物部氏も同jことで、秦氏の祭祀伝道にはとても及びません。
ちょっと過激なことを申せば、渡来人のほとんどは秦氏で、日本人の半分以上は秦氏の血を引いていた可能性だってあるわけです。あの時点で本当は秦氏が大王になっていてもおかしくないはずでしょう?
大変だ!

ですから「蜂」「八」は同じで、後に「鉢」となることもありました。
『信貴山縁起絵巻』という国宝の絵巻物には鉢が出てきます。見えない龍が転がす鉢です。
また空海や行基の伝説には来鉢伝説があります。
全国的に「来鉢」「鉢来」などの地名があるところには、彼らが投げた鉢が落ちたところに水が出た、温泉が湧いたというのですが、あれは水というより水銀だったのかも知れません。

2006年11月8日編集 かわかつ   つづく


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2 序論追補   記紀神話と中国南部少数民族伝承の類似

 投稿者:かわかっちゃん  投稿日:2007年12月21日(金)13時27分39秒
編集済
  この少数民族達が皆、実はある共通の始祖伝承を持っていることに重要なヒントがあります。それはもともと北方民族であった犬戎や槃瓠たちがもともと持っていたもので、それゆえに南部の少数民族は彼らから別れていったのではないか?という推測がなりたちます。

彼らは共通して犬を祖先としているのです。(実を言いましてわたしの棲んでいる大分県全般にこの犬の伝承が全国でも一番多く伝わっています。地元では「犬」を「イン神」と言うのです。)中には猿、鳥、蛇もありますが、すべて始まりは犬といっていいのです。その後、各部族に枝分かれする段階で、猿や鳥が加わります。

おや?と思いませんか?
犬、猿、鳥?まるで桃太郎・・・。
そうなのです、これは桃太郎の手下になった話とおんなじ内容。

実を申しますと、吉野裕子氏は、これこそが陰陽五行説の派生する大元の言い伝えなのだと解釈しています。
犬、猿、鳥は干支にある動物で、方角を表すのです。しかもすべて『西』。

じゃあ蛇は?
そうですね、蛇は西ではなく南南東の干支です。しかし蛇は脱皮をします。それは「再生」するということ。再生するという概念が尸解仙(しかいせん・人間が衣服や靴を残して消え失せ、再びこの世に現れるという仙術)という陰陽五行の秘術を考え出させます。
ちょうど日本の武内宿禰も沓をのこして消えましたね。同じことです。

さあ、それでは西という方角にどんな意味があるのでしょうか?

つづく  2006年11月7日編集

さあ、続きです。

西は申酉戌でしたね。
西は陰陽五行では金気です。
金というのは岩石、石、鉱物、剣、鎌、鋤、鍬、宝石、宝物と連想を広げてゆけます。
鬼ヶ島には金銀財宝があります。それはつまり鉱山だということではないですか?
桃太郎は鬼の鉱山を奪いに鬼ヶ島にいったのです。

これと同じようなお話が岡山県にはあります。
吉備津彦と温羅(うら)の争いです。
吉備津彦を桃太郎に、温羅を鬼に置き換えると、このお話もまったく権力者が鉱山の簒奪に行ったお話と理解できます。
岡山には鯉喰神社、矢喰神社、血の川、鬼が城などの伝説的遺跡があります。あれはすべて鉱物だといっていい。全国に血田という地名がありますが、例えば私の住む大分県の宇佐氏院内町にも血田があります。

宇佐川(駅館川)の上流に耳垂、鼻垂という山賊がいて、困っているから退治してくれと在所の姫が天皇に頼みました。あるいは別府の速津姫も同じようなことを天皇に頼みます。こっちは青と白という山賊です。宇佐川の上流である津房川からは大量の化石が出るのです。つまり宇佐の内陸部は鉱床を形成する材料がある。化石は銅やリンなどさまざまの成分を創り出しますから。
別府の実相寺にはたくさんの古墳があって、その中に太郎塚、次郎塚古墳がありますが、その向い側は鉄輪というカンナ流しに由来する地名の温泉地帯です。この鉄輪温泉のずっと上には山ほど明礬が出る明礬蒸し湯があります。そばに行くとすごい硫黄の匂いが充満しており、温泉自体も真っ白の乳白色です。温泉のそばには必ず鉱脈があります。

神功皇后が九州で夫である仲哀天皇に「西に素晴らしい国があるから、熊襲なんかよりもそっちへ行こうよ」と誘惑しています。
けれど西の方をいくら見たって九州から見えるのは海ばかり。あの「西」も方角というよりは金、宝物の意味ではないでしょうか?
九州の西にあるのは中国の会稽東冶です。それなのに神功皇后と武内宿禰が行ったのは西ではなく北の新羅でした。どうしてそこを経由して西にある中国へいかないのでしょうか?それは中国へ征伐とは書けないからだと思います。漠然と西と書いたのは江南の鉱山を指していたのではないでしょうか?
日本の国家形成の手本であった中国へ、まさか鉱物を奪いに行くとは表だって言えなかったのかも知れませんね。

大江山の鬼退治。
あれも酒呑童子は鬼にされましたが、負けたからです。鉱山を採られたからです。採られずに勝っていたら頼光の方が鬼になったでしょう。しかし、鬼を退治した者は実は鬼より強いわけですから、一般人から見ればすなわちやはり鬼なのです。

田原の藤太の百足退治
百足とはどう考えても将門が持っていた鉄でしょう。将門は「強風にあおられ」馬が立ち上がってしまったところを「片目を射抜かれて」滅びます。伊吹と片目はどうみてもたたら鍛冶を指します。
田原というのも、藤太というのもどちらも多氏を表すのです。その田原の藤太の本名は藤原秀郷ですから、藤原と多は同じかも知れない。特に東国、東北では藤原氏は中央の藤原氏に反駁する氏族ではありませんか?西でも藤原純友がいますね。
百足は鉱脈ですし、同時にたたらふいごの板を踏む足です。

百合若大臣の鬼退治
百合はユリで、鉱物の選別であり、また笹ユリの花は指標植物でもあります。
鋳物師に関係の深い神奈川県の鎌倉鶴ヶ岡八幡や山形県の鶴岡の由利地名も大いに鉱物地名でしょう。

役行者は鬼を使って水を汲ませていました。水とは水銀でしょう。前鬼という地名が奈良県の吉野から和歌山県の大台ヶ原の間にあります。吉野~熊野は水銀の出る中央構造線のど真ん中ですし、多氏の眷属だった都祁直や小長谷部造、坂合部などがいましたし、多にいますやしりつひこ神社もあります。その役行者は葛城の鴨氏の出身で、修験道の開基者で、葛城一言主の別名ですから、葛城襲津彦とは同族でしょうし、鴨氏の祖神であるあじすきたかひこねとも大いに関係があるでしょう。

出雲の鉄に関わる「よい鋤」を持った高い山という名前の神が出てきたところで出雲の意宇のお話に近くなりそうです。乞うご期待。



それでは、記紀神話と中国少数民族の伝承にどれほどの類似性があるかを、諏訪春雄、大林太良、田中勝也、君島久子各氏の著作から筆者かわかつが拾い上げた記録を、ブログ『民族学伝承ひろいあげ辞典』からこちらへ書写します。
すでにブログでご覧頂いた方には重複するでしょうが、ご容赦願います。なお、記載はごく一部に限らせて頂きます。さらに深く追求したい方は拙ブログをご確認、あるいは上記著者の作品をお読み下さい。上記各氏の著作名についてはブログの参考文献欄をご確認下さい。

民族学伝承ひろいあげ辞典  http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205

洪水神話
ミャオ族の洪水神話には、日本にしかない神話形式の中の「柱の周りを回って子を生む」類型が見える。
これはおそらくこのミャオの伝承だけの特殊な神話だろう。
およそ中国江南には日本神話の要素7種類のうち、6種類までははっきり読み取れるが、「柱」型だけは見あたらなかった。諏訪春雄はそれを見いだしている。

「大昔、天から雷鳴とともに雨が降り注いだ。ひとりの勇敢な男が鉄の檻を用意して雨の中に飛び出し、雷をとらえた。男はその後町へ出かけた。
留守番に子どもの兄妹をたてた。
雷はふたりに水を所望した。飲んだとたんに雷は天に飛び去った。
雷はふたりに礼として歯を一本渡し土中に埋めよと言った。土中にこれを埋めると大きなヒョウタンが生えた。雷は怒り倍増し大洪水になったが、兄妹だけはヒョウタンに身を隠し助かった。
ある日、兄が妹に結婚しようといいだした。妹はこれをことわったが、兄がしつこく言い寄るので、「自分を追いかけて捕まえたら結婚する」と言った。
兄妹は大きな木のまわりをめぐりながら追いかけっこをした。すると兄は急に向きを変えて妹を捕まえてしまった。
「結婚してまもなく生まれたのは手足のない肉の塊であった。」
ふたりは肉塊をこまかに刻み、天の神に教えを乞うため「天への梯子」をのぼりはじめた。大風が吹いて包みがほどけ、肉塊は地に落ち、人間が生まれた。」
(君島久子「中国の神話」より)
「」は記入者

コメント
雷をとらえる話の類型は「日本書紀」雄略天皇が小子部スガルに「雷をとらえてこい」という命令をくだすが、スガルは間違えて全国の子どもを連れてきてしまい笑いものになるというのがある。
この挿話は、南方神話の影響から生まれたものだろう。したがって聖書の類似説話との関連は疑わしく、むしろ逆に西洋が東洋の神話を応用したとみるほうが時代的にふさわしい。
古代、自然現象は身近にあって、それは人類と同じはらから生まれたと思われていたのだろう。雷も兄弟のひとりである。人も自然の一部だという観念こそ古代人の着想の源である。
混沌の中から男女が生まれる話も多く、これもイザナギ・イザナミ神話に影響した。
日本では雷は製鉄集団である近江の伊福部氏として現れる。伊福部氏とスガルの小子部は実は同族である。
「古事記」には神武天皇の三人の皇子のうち、神八井耳命は意富臣、小子部連、坂合部連らと並び、火君、大分君、阿蘇君、筑紫三家連ら18部族の祖と書かれている。
阿蘇の君はそのうちの意富臣と同族。鍛冶集団である。阿蘇神社には男女が周囲を回ると結婚できるという松の木がある。
神八井耳命は「忌い人」(いわいびと・神祇を司る神)である。(拙HPマニアが逝く・阿蘇の君が祭る国より)http://2004mmc-kawakatu.cool.coocan.jp/aso.html
意富臣はすなわち多氏である。出雲地方の意富を出自とするが、大とも太田とも、また大野とも同族であろう。従って太安万侶はこれらの説話を同族から集めた可能性もあろうか。
スガルが間違えて子どもを招集したのには、バックに徐福の逸話があることが考えられる。


ハイヌヴェレ型(大月姫型)



ジャワの言い伝え
ジャワでは食物が少女の死体の各部から生じた神話がある。
ヘソから陸稲、頭からココヤシ、性器からサトウヤシ、両手からはぶら下がっている果物、足からは地中にできる野菜が生まれたのだと言う。

北ボルネオ・ドウスン族
世界の始まりの時、原初の夫婦に子どもが生まれたが、夫婦は二人してこの子を殺し、切り刻んでしまい、それを地中に植えてゆく。すると頭はココヤシに、指はビンロウジュ、耳はシリーのツル、足はトウモロコシ、皮膚はヒョウタンのツルになった。

インドネシア・セラム島・ヴェマーレ族
ココヤシの花から生まれたハイヌヴェレと言う少女が、祭りの夜、踊りの最中に殺され、身体の各部がタロイモやヤムイモになった。

このほかフロレス島のマンガライ族は殺された子どもの死体から稲とトウモロコシが発生したと伝えられている。

日本、古事記、スサノオノミコトが放浪の途次、食物女神オオゲツヒメが口から食べ物を出したので、不潔だとしてこれをを斬り殺すと、頭から蚤が、両目からは稲種、両耳からはアワ、鼻からは小豆、陰部からは麦、尻からは大豆が発生した。

話は違うがビルマのワー族は稲の種まきの前に必ず首狩りを行った。これは豊作祈願である。
また、アジア大陸南東部の人種には稲作儀礼として必ず牛、水牛、豚、鶏などの家畜を屠る習慣があり、それは島や山地に限らず平地民のラオ族でも水牛供犠は見られる。
ボルネオの南部オト・ダノム族は種まきの時豚、鶏を殺す。そしてその血を精霊に捧げ、種籾に混ぜ合わせる。
南ベトナムのセダン族は稲が芽を出した時、豚か鶏を屠って、其の血で稲を清める。
日本では『古語拾遺』に、牛の肉を溝の口に置き、御歳(ミトシ)の神に好意を得ると言う稲作儀礼の記述がある。
また、諏訪大社御頭祭(オントウマツリ)では鹿の首数十頭分を神に捧げ、その中の最も立派なものの耳に切れ込みを入れる風習があった。その時の供物には鯉、猪・ウサギの臓物を血で和えたものなどがある。


コメント
ここにあるものは「死が生の前提である」という観念だと大林太良は書いている。
それは例えば猿田彦が最期に大きな貝に挟まれて落命するのと同じことで、貝という女性性器・・・すなわち胎内・・・生命の生まれ出づる処からでて、またそこへ戻ってゆくという輪廻転生でもあろうし、生と死が常に表裏一体であることをも示しているのだろう。縄文の火炎土器などにしばしば胎児のような、あるいは女陰のような付属物がとりつけられているが、あれを蛙とする定説は、言い換えれば、蛙もまた泡から生まれるモリアオガエルなどのように、神秘の中から生まれ出る生命力を現していると言うことであり、古代人の死生観を知る手がかりになるだろう。死によってこそ有が生じるという観念は、無から有が生まれると信じた時代の信仰観念にももちろん影響したのだろうと思える。
だからこそ、屠り、祈るという形が残ったのかも知れない。
古代にあっては生きることよりも死すことの方が重要なテーマであり、死の暗闇こそに真理を見いだしていたのかも知れない。それほど死はすぐそばにあり、命は短いもの、はかないものだったとも言えよう。


バナナ型神話


東南アジアセレベス地方のトラジャ族の伝承 大林太良・ミシェル・パノフ他『無文字民族の神話』所収大林太良「東南アジアの神話」より

昔、天地の間は近く、神が縄に結んで贈り物を降ろしてくれていた。ある日、神は石を降ろしてきた。われわれの最初の父母は「これをどうしろといわれるのか?何か他のものをください」と頼んだ。
かわりに神がよこしたのはバナナだった。そして神はこう言った。
「お前たちはバナナを選んだから、お前たちの生命はバナナのようになるだろう。もし石を選んでいたなら不変不死を手にしただろうに」

バナナの木というのは実を結ぶと枯れてしまうのである。
全く同じような神話が日本にもある。
天孫ニニギノミコトの神婚神話である。
大山祇の娘・コノハナサクヤビメを見初めたニニギに対して、大山祇はもうひとりの娘である醜女イワナガヒメをも押しつける。しかし一目見たニニギは彼女を送り返し、妹のコノハナサクヤだけをめとってしまう。大山祇は怒りこう言う。「天孫の命は花のようにはかなく短いものになるだろう。イワナガヒメをめとっていれば永遠の生命を手に入れられたものを!」


ペルセウスとアンドロメダ型神話(スサノオ型)


大林太良が記録した長江南域の大蛇神話。『捜神記』

「東越の庸嶺(福建省)の西北の湿地に大蛇がいた。
長さ七,八丈、大きさは十余抱えにもおよんだ。
大蛇は誰かの夢や巫祝を通して「少女のいけにえを要求した。」
毎年、役人たちは奴隷の生んだ子や罪人の娘を捜し出しては大蛇に捧げ、その数は合計「九人におよんだ」。将楽県の李誕の家には六人の娘がおり、寄(き)という末娘がいけにえを志望してきた。

寄はよく切れる剣を懐にして、蛇を噛む犬をともなって八月一日の朝、蛇の洞窟近くの廟におもむき、中に座った。
あらかじめ用意した蒸し米で団子をこしらえ、それに密と煎り麦の粉を混ぜ合わせたあんをかけ、穴の中に置いた。
匂いに誘われて出てきた大蛇に犬が噛みつき、寄は剣で斬りつけた。
大蛇は庭に出て死んだ。
越王はこれを聞いて寄をきさきに迎え、父を知事にした。

コメント
越王が出てくるので5~8世紀頃の話だと諏訪は書いている。
この話はいわゆる「ペルセウスとアンドロメダ型」である。しかしギリシャ神話が先かどうかはわからない。この手の話は世界中にあるが、「人身御供」「名剣」「神婚」要素が揃っているところはスサノオの八岐大蛇退治に類似している。
ただし八岐大蛇が西洋のドラゴン的であるのは、この話の原型が西からきたことを匂わせる。西洋文化の東洋への侵入は、十字軍遠征、あるいはフン族の西遠征、あるいはシルクロード通商などが考えられる。
現在、我々が歩いて何万キロも進行してゆくなどとても信じられないでいるが、昔は歩くことがあたりまえであった。馬も、人と共に進軍するのだから、今の車のようにぶっ飛ばすわけに行かない。
聖歌にも「星影たよりに」とあるではないか。
しかし日本へは江南から海を越えてやって来た。


海幸・山幸型



釣り針をなくす話も東南アジアに多い神話である。
チモール島の伝説 クライエル・ファン・アールストの報告

昔ニフにネノが住んでいた。(ネノはチモールのマフェファリロ人の祖先)ある日兄のテファから釣り針と釣り糸を借りてウナギ釣りに出かける。なかなか釣れないので釣り糸を木に縛り付けて一度帰ってきた。その夜大雨になり川が氾濫する。ワニの王がエサの付いた針を見つけ、飲み込んでしまう。
兄は非常に怒り、ネノに針と糸を探しに行かせる。
ある日川でワニの女王に出会う。女王は豚を洗っていた。「何してるのだ」と聞くと「王が苦しんでいるので豚を食べさせて元気にしたいのだ」
「なぜ薬を飲ませないのだ」ネノは”ワニの背中に乗って”海中のワニ王の家に行く。中略
ワニ王の釣り針をはずしてやり兄のところに戻る。
兄は喜んだが、今度は糸が足りないから繊維を調達して来いと命令する。ネノは再びワニのところへ行くと、ワニ王は水牛をくれる。ネノはこの水牛を兄と村人に分け与える。これがこの地方の水牛の始まりである。

セレベス島のミナハッサの神話

友達から借りた釣り針をなくしてしまい、主人公は海中に潜る。海の中の家でひとりの娘が喉に釣り針が刺さって苦しんでいるノデ抜いてやる。男は大魚に乗って戻り、大雨をふらせたりして友人を苦しめて復讐した。

セレベス北部ブオール王国の起源神話
兄と妹がそれぞれ猟犬とミサゴ(魚を捕る鵜のような鳥・それぞれ山と海を現す)を交換し、兄がミサゴを返さなかったため仲違いする。

こうした日本の海幸・山幸の釣り針交換神話の形式はインドネシアやビルマ、中国南部に氾濫している。


昔話の類型



ミャオ族
「二軒の家の境に大きな桃の木があった。ある年、実が一つしかならないことがあった。
その実はずんずん大きくなって地に落ち、割れてひとりの男の子が出てきた。両家の人々は喜んで桃の子太郎と名づけてかわいがった。
18になった。「毎日川辺の」丘で放牧していた。
対岸にいつも「洗濯している」美しい娘がいた。
お互いコーラスするいい仲になった。
娘は一枚の布を川に流すと、それは橋になった。二人はそろって娘の父親のところに行った。
父親は意のままに相手を殺せるほどの呪者だった。
さまざまな難題を押しつけてくるが、娘は父から呪衣を盗んで、なんども桃の子を助ける。
山焼きに誘って「桃の子の周囲に火をつけ焼き殺そうとしたり」、森や竹藪をすべて切り倒せと命じたりするが、いつも娘の助言と呪衣で難を逃れた。呪者はいつも成功させてぐーぐー眠っている桃の子に舌を巻いた。
ある日、桃の子は父の家を逃げ出すことにした。
娘は神棚にあった三本の傘のうち、一番小さな傘を渡して「どんなに照っても降ってもこの傘は開くな」と約束させる。
その傘を手にすると身体に羽が生えたように飛翔できた。
天候が急変した。すごい雨とかぜ、次いで灼熱。たまらず傘を開くとぼかんと大きな音がして娘が現れた。眠っていた呪者は目を覚まし、二人が逃げ出したことを知り、毒矢を射かけたが、またしても娘の呪力で助かった。二人はめでたく結婚した。」

この話はスサノオのもとから娘を奪って逃げる大国主の神話とまったく同じである。
しかも多くの難題をふっかけられ、それを娘の助けと呪宝によって乗り越え、最後に父の呪具を奪って逃げるとき、呪具が音を出してしまうところまで同じ。
大国主が奪ったのは琴であったが、桃の子太郎は傘。
しかしふたつ共に神霊の宿るご神体・預言の際の呪具である。
話自体は西洋の「ジャックと豆の木」にも似ている。
周囲に火をつけられるのはまるでヤマトタケルだし、この話には「桃太郎」「スサノオと大国主」「ヤマトタケル」などの日本の神話、お伽噺の原型が存在している。
父親から難題をふっかけられてゆく話の形態は「難題婿」と言われ、山東省で語られる「春旺と九人の天女」という話もそうである。ここには「浦島型」「天の羽衣」の原型がある。

「春旺はある日、男の子にいじめられていた鹿を助ける。
母親が死んで孤児となった18歳のとき鹿が現れ、天上から九人の天女が水浴のために降りてくるから、天女が脱いだ衣をひとつとるようにと伝える。
末娘の衣を奪って二人は結ばれる。
子どもが生まれ二人は天上に報告に行く。父が多くの艱難辛苦を与えようとする。妻の助言ですべてをクリアし地上に戻って幸せに暮らしましたとさ。」

どちらの話もまるでしつらえたように日本昔話である。もちろん私が作った話ではない。
下の話は広畑輔男が学会誌『民族学研究』39巻三号に掲載した「オオナムチ神話の成立」で発表したものであるし、上の話もすでに伊藤清司、松前健、西郷信綱、松村武雄の各氏が研究している。

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序論 東アジアの始祖系譜は中国古代系譜のコピー

 投稿者:かわかっちゃん  投稿日:2007年12月21日(金)13時18分41秒
編集済
  中国『大越史記』の百越始祖系譜を図式すると以下のようになります。

炎帝神農氏・・・三世孫帝明
          :・・・・・・・・・・・末子シヱ陽王
         南嶺遷女山岳    :・・・・・・・・・・・豸各龍君
                    洞庭君女神龍   :・・・・・・・・・・・・・・・・・・・雄王百男
                             帝明やしゃ孫嫗姫
では日本の神話の系譜は、

天照大神・・・・三世孫ニニギ命
           :・・・・・・・・・・・・・・末子山幸
        大山積女アタツヒメ     :・・・・・・・ウガヤフキアエズ
        (コノハナサクヤヒメ) 海神女豊玉姫     :・・・・・・・・・・・・神武
                                豊玉姫妹玉依姫
系譜内の女表現は娘の意味です。
二つの系図を要約するとどちらも・・・

天祖の三世孫が山(岩石)の神の娘を娶り、その子が今度は海の神の娘を娶り、つなぎの王が生まれ、金属のイメージを持つ「近親者」(おば)を娶って最後に始祖王が生まれます。

次にスサノオの系譜です。

スサノオ・・・八嶋じぬみ
          :・・・・・・・・・・・・・末子フハノモチクヌスヌ
       コノハナチルヒメ山岳        :・・・・・フカフチノミズヤレハナ
                       ヒカワヒメ 水      :・・・・・・・・・・・・オミツノ
                                   ツドヘチネ

次は夏王朝の系譜。

黄帝・・・・・禹王
         :・・・・・・・・・・・・・末子相
       塗山娘(山岳)     :・・・・・・・・・・少康(ツナギ)
                    后婚(水神娘)     :・・・・・・・・・無余・・・・//・・・越王無任
                                二ヨウ

以上を公式化しますと・・・

天祖・・・正統天孫三代目
        :・・・・・・・・・・・末子
      山岳神格の娘    :・・・・・・ツナギ王
                 水神娘     :・・・・・・・・・・始祖王
                         近親者



ところが古代朝鮮の系譜を検証しますと、近親者とつなぎ王の婚姻は除かれており、あとはまったく同じ構造なのです。
半島は中国王朝のよき模範的複写文化を誇りとしますが、近親結婚だけはがんとして認めていないのです。一見、実に合理的取捨選択がなされているように見えます。これは今でも、韓国の歴史学者が日本との格の違いをいわんとする論拠のひとつとなるのだそうです。
しかし、大元の中国ではちゃんと近親者の娘の婚姻が残っていますね。不思議なことです。頑迷な儒教観念が入り込んでからそうなったのでしょうね。『三国史記』などの半島の国史2巻が中世になってから初めて書かれたために、儒教観念が近親結婚を割愛させてしまったのは残念ですね。

いずれにせよ、日本の天孫神話も、古代朝鮮の系譜も、またベトナムなどでも、おしなべて東アジア諸国の始祖系譜は中国江南に起こった古代炎帝神農氏の系譜をまるごと写したものだということが一見してわかります。

古代朝鮮の文武王は新羅第30代大王ですが、その墓陵は海中の岩礁にあります。地元ではこれを、「倭人が攻めてこないように見はるためだと故人の遺言で日本が見える半島の海中に作った」と言います。しかし、おそらくそれは秀吉の不当な征韓戦争や第二次大戦での日本軍の侵略戦争に対する恨みから出た言い伝えかも知れず、実際には、風水に従って母なる胎内へ回帰しようとする「再生願望」の観念に乗っ取って作られたに違いありません。

また森弘子女史の著作にもありますように朝鮮総督府が刊行した『朝鮮の風水』でも、理想的風水地形はソウルや平安京のように女性の陰部を想像させる自然の城壁に囲まれ、河川の湿潤が東、南にある場所が最適とされています。風水はあきらかに神仙思想~道教という中国江南からの思想を背景にして完成した観念なのです。



このように、日本を初めとする東アジア各国が中国南部派生の思想を自国へ移して国史、正史を作り上げてゆくのは明々白々の事実であります。つまり日本の記紀も、8世紀になって壬申の乱を経て持統天皇の世になって以降、『日本書紀』、神祇令などの条例が出せるようになった。つまりはようやく国家が安定したということなのでしょう。国家統一のためには人民のイデオロギー・信仰を統一する必要があります。当然、始祖伝承も人民や諸勢力が持っていたバラバラの伝承では困るわけです。ですから、最も古く格式のある中国の最古の系譜を持ち込み、そこに都合のいい神を当てはめたわけです。言い換えると、ちょうど今の自民党が政府の大臣を各派閥からもめごとのないように選び出すの同様、地方の首長達の信仰する神をうまいぐあいに国家神としてまんべんなく国史に取り入れ、随所に、地方の神もちりばめてやる必要があったわけなのではないでしょうか?

もめごとなく、しかしそれとなく、女帝が正統の始祖から生まれ、大儀を持って大王『天皇』となれるように様々な趣向と工夫が当時なされたはずです。
梅原猛はその頃の神社への条例が女性の為政者を前提にして作られたと言います。
天皇が神社参詣する際の衣服を指定しておりますが、それはどう見ても男性用の衣冠束帯ではなく、女性用の衣装についての説明なのだそうです

また伊勢神宮に天照大神を置いたのも、また記紀にあとから神功皇后が卑弥呼だったような書き込みをしたのも、推古女帝を持統の少し前に登場させるのも、すべては前代未聞の女帝統治を国民に知らしめるためのセレモニーだった・・・それは実質の為政者である藤原不比等にとって非常に必要なことだったのではないでしょうか?

それはさておき、ニニギは同じ山岳神である大山積の娘のうち、長女の岩長姫は返品しています。理由は面相が醜くかったからと言います。つまりさくや姫のようには鉱脈のない(醜い)岩だったからでしょう。とするとスサノオ系譜のコノハナチル姫とは水銀鉱脈が枯渇した鉱山?いや、藤原不比等は日本の皇室は鉱物を選ばず、人民を選んだのだという意思表示ともとれますね。

ヤオ族など槃瓠・犬戎の血を引くと言われる中国少数民族の間でも、まったく同じ伝承がありますね。始祖王以下の人間国王の寿命が短いのは、美しい姫、おいしい果物を選んだせいだ、というわけです。

神仙思想の大元にあるのはまず鉱物です。不変の無機質こそが人間をも永遠の生命を持たせてくれるのだ・・・。
秦の始皇帝もまたまったく同じに不老長寿を求めました。そして自らの墓室を水銀の海で満たしたのです。
水銀(朱沙)こそは生命の再生をかなえる媚薬だと信じられていた証拠です。

炎帝神農氏から夏王朝、そして越、呉へと続く中国王朝のうち、おそらく前半部分の夏王朝までは本当に存在したかどうか不明です。
つまり、鉱物を母なる大地とする山岳信仰がまずあって、そこから鉱物を基盤とした水資源などへの信仰とプレ道教的な神仙思想がこうした祖国祖神を創り出した可能性もあるわけです。
事実、夏王禹は完璧に片目、片足という鉱物神のイメージで彩られた王なのです。

こうした神仙思想や道教、北辰、妙見信仰を基盤にして、日本書紀は間違いなく書かれている。記紀というものは中国古代の思想から生まれたのです。
これが半島からのコピーであったなら、後半の「近親結婚」は割愛されているはずです。

山の神と水の神が日本の鉱物神、水銀神であり、途中ですべてが水の神(みつはめのかみ)にすり替わってしまうのは、もともと基盤があったのです。水銀=水へと変わってゆく。言葉を置き換えただけです。それは聖武天皇の時代に東大寺廬舎那仏の金箔過程が大量の水銀禍を生み出したからです。最初は好調だった多氏たちはやがて水銀のために鬼にされてゆきました。かつて丹生氏たちにやったことが今度は自分たちに返ってきたのです。

先住縄文の水銀を奪い、侵略した弥生の鉱物開発者たちは今度は新しい権力者に簒奪されました。こうしたお話が童話や説話になったのが桃太郎や金太郎、田原の藤太の百足退治、源頼光と四天王の大江山酒呑童子退治、炭焼き小五郎伝説、金売り吉次などです。

そして山の鉱物と水とは、殖産興業・富国強兵という国家建設にとっての必然が鉱山を開発し冶金する重工業を示しています。それは今も同じではないでしょうか?こうして日本の神々は縄文のよりしろである自然現象への畏怖から鉱物神へと変化してゆきます。

水銀はあらゆる金属を自然に溶かし込む性質があります。貴金属を探し出すには、まず水銀鉱脈を探すことが最も簡易な方法です。これを水銀の蒸散性の高さを利用して取り出す方法がいわゆる「流し」なのです。

諏訪春雄氏や田中勝也氏が詳細に分析しているとおり、日本の神話の類型のほとんどは、すでに中国江南江東の犬戎・槃瓠から枝分かれした少数民族たちの伝承に氾濫しています。
犬や猿、鳥を祖神とする系譜や、複数の太陽を射落としたあと洪水となり、少女と犬が始祖となる始祖伝承、あるいは食物が体からはえ生じる話、美女ならぬ美味なる果物を選んだために人間が短命となる伝説など、日本神話のオリジナルと思われてきた神話のすべては中国少数民族の言い伝えてきたものであることが判明したのです。

これらの南方系神話こそが、後になって中国王朝が取り込み応用していたもので、やがて神仙思想へと発展、最後には星信仰、北辰信仰、八卦、占星術などの道教へと発展。そこから密教、修験道は始まっているわけなのです。

日本の朝廷へは聖徳太子の時代に遣隋使によって仏教説話として入ったことになります。

しかしながら九州ではすでに聖徳太子以前に、神仙思想も道教も仏教でさえ入っていました。それは海人族という外洋航海者がすでに「倭人」として西日本にいたからです。
船の力は今、我々が想像する距離をはるかにしのいで、インド、中近東、エジプトまでも及んでいたという説が現在非常に有力です。こうした海外貿易こそが新しい文化と技術を運び、ひいては最新の博物学であったプレ道教までも運んだことは当然と言えば当然でありましょう。
彼ら貿易者こそが「倭人」であったわけです。

『魏志倭人伝』でもあきらかなように、倭人は鉄をも貿易の道具にしていました。
倭人伝は倭人伝ではあっても、倭国伝ではありません。倭国などその時ないからです。
幅広い海の民が海上にいただけのことです。しかも彼らは人種的にすでに混沌としていました。「日本人」=倭人ではないのです。

「倭人=海人」です。彼らがやがて北方系渡来の民と混血し、ようやく古墳時代になって倭の五王という「倭国人」?が出現します。プレ国家の成立は同時に武器国家の始まりでもあります。
武器や農具の原料としての鉱物をより多く欲し、それをまた海外にも売りに行ったはず。今の国際状況となんら本質に変わりはないのです。ですから弥生時代は日本の産業革命でした。ゆえにいくさも起こり、いくさで死んだ遺体も沢山出るようになるのです。

渡来人はさらなる新技術を持って海人族を牛耳ったことでしょう。日本の海の潮目を熟知した海人は重要な水先案内(椎根津彦)となります。そしてこの海人族もまた「海部」という知事クラスの管理者によって税をとられている。その海部の陰に隠れた鉱物資源管理をしていたのが熊本阿蘇の阿蘇神社の神職となる「多氏」(阿蘇氏)でした。
古代の大古墳を見れば、被葬者のほとんどは海部と多氏だと言えます。そういう形式で埋葬されているからです。

その後の3~4世紀の、文献上に現れる渡来人達の中で最も繁栄していたのが物部氏と秦氏と蘇我氏でした。彼らもまた、結局は藤原氏が考えついた天皇制の影で力を奪われ、資源権利を無償で捧げることになります。いわゆる「権謀術数」こそが世界中の人類を動かしてきたのです。

奢れる者は久しからずや・・・平家物語の無常観はこうして生まれてきました。そしてそれこそが庶民、常民たちが1万年の間に耐えてきた日本人のノーアイデンティティの基盤となったのです。耐えた歴史に自意識は邪魔だったわけでしょう。

序論 東アジアの始祖系譜は中国古代系譜のコピー
2006年11月6日追補書き込み
6 豊前地方の秦氏と多氏はバッティングしていない
これまで九州各地、諏訪までの日本各地をフィールドワークして来て最も不可解なのは、九州北部という古代の先進地で、福岡県東部の遠賀川以東、豊前地方の存在である。

豊前と言えば八幡神の古い大元である。
田川郡香春町にある香春鉱山の存在はここに渡来人・秦氏(波多氏)が存在していたことと大いに関わる。豊前人口の実に90%以上が戸籍上秦姓を名乗っている。

しかし秦氏の首魁となる京都(山背)葛野(かどの、今の西京。のちに楓野、蜂岡とも)酒の君、秦河勝の下には確かに小子部氏や大生部氏といった多氏眷属の名前があるのである。

しかるに秦氏本願地であるはずの豊前はどうだろうか?

豊前香春神社の奉仕者は秦氏眷属の赤染氏、敦賀氏であり、かつては宇佐神宮神職の辛嶋勝氏もここの出身と思われている。
しかし、こうした渡来系氏族名と阿蘇多氏の氏族名が今のところ一致していない。

現時点に置いて秦氏と多氏に九州北部では接点が見つけられないでいる。

考古学者森浩一は遠賀川東側の文化が他の九州の文化圏と違って、いつまでも古い文化をひきずっていると指摘している。
古い縄文からの土器の形式や生活様式を守っていた可能性があると言うのである。
もし豊前の縄文人達が、阿蘇多氏ではなく、朝鮮経由の秦氏の管理を受けたためにそうなったのだとしたら?

ともあれ、豊前の秦氏もまた多氏同様、多くの技術者を引き連れて糸島半島近辺に上陸したであろう。豊前の秦姓を持つ人々のすべてがもともと秦氏の血族、同族だったわけではないだろう。半島に到る長い道のりの間に取り込まれた氏族もいただろうし、豊前に入ってから取り込まれてゆく在地先住民もいたことだろう。
秦を名乗ることに大きな力があったことは間違いない。
それは易姓革命とまでは言えないものの、ひとつの新勢力への大きな帰順があったことを意味する。

そして彼らがなぜ、列島を東へ移動して行き、ついには長岡京、平安京を朝廷に献上できるほどの大豪族になってゆけたかと言えば、まず多氏同様、鉱物開発に理由が見いだせる。
それは豊前のとなり山口県に秦氏が持っていた美弥市於福町の赤鉱山があることから、秦氏が東へと開発を展開していったことが推察できるからである。
さらに、東へ行くと兵庫県出石町に秦氏伝承につらなるアメノヒボコが祭られる出石神社があり、そこにはなんと阿蘇多氏眷属である伊福部氏が祭る伊福部神社があり、同時に鉱山氏族である大生部氏の石碑もあるのだ。

おそらく山口の宇部などの地名も大生部氏から派生したのではないかと考える。
山口県は全体が、秋吉台鍾乳洞に代表される石灰質の高原である。当然、セメント業が盛んだが、日本海側へ行くと皆さんよくご存じの土井が浜遺跡という弥生時代の大陸人の戦いで死んだ屍が「西向き」に葬られているのが海岸から見つかっている。

おとなり出雲の神話ではアメノヒボコと大国主の間に数度のもめごとが起きたと記されている。播磨国風土記の記述であるが、その播磨もまた生野銀山で栄えた鋳物師の町なのである。おそらく妻であった阿加流姫を追いかけて来たというアメノヒボコ伝説は閼伽=水銀を追いかけて来たということだろう。ところがその阿加流姫とは出雲大国主の娘で、鉄を意味する名前の神・アジスキタカヒコネの妻となる下照姫と同体であるという言い伝えもあるのだ。アジスキタカヒネコとは鴨大神であるから、葛城の鴨の祖神であることになる。

奈良の葛城一族や鴨氏までが実は秦氏と大いに関わってくる。

それ以前にまず秦氏が九州豊前に入る前に在地勢力としてあったはずの宗像はどうだろうか?それに宗像より以前に棲んでいたはずの安曇磯良の子孫達とはどうなのか?

阿蘇多氏が航海貿易のために阿多隼人などの海人族と協力したのなら、秦氏だって同じことを考えたはずであろう。交換貿易の時代に船舶の運搬力・機動力は権力を得るための最速、最大の道具となる。ならばすでに済州島、壱岐対馬において秦氏と安曇族の主従関係があったはずであろう。

壱岐に行ってみた。
百合若伝説と、百合古墳群と、月読神社・猿田彦男嶽神社のある壱岐には今でも安曇族・海女族がいる。秦氏はすでにここの勝浦で彼らを配下においていたのだ。それが宗氏であり、宗氏こそが宗像氏となるのではないだろうか?

宗像、安曇自体、日本海を北上して高志や越前までの航路を持っていたことだろう。その証拠に科野の安曇野の地名があり、それは最上川から千曲川を抜けておそらく諏訪にまで到達する。これは多氏が中央構造線に沿って北上したのに対する、翡翠の道であろうか?
糸魚川、姫川にいた沼川姫と大国主は夫婦である。
こうなると出雲にも秦氏、多氏の痕跡があるはずだ。

2006年11月6日    JunSouda
頭の体操 ここまでの知識で本当の天孫系図を書いてみるこれは勿論、単なる遊びです。くれぐれも申し上げておきますが、どんな著書を読む場合でもそうですが、その著者の書いていることを
1鵜呑みにせず、自分自身でも検証するべし

2頭から素人の妄想だなどと考えず、それなりによいところと間違いの処を自分なりに判断すべし

3少なくとも著者も何年も頭をひねって現段階までたどりついています。信じる信じないはご自由ですが、批判するだけの知識をあなたも持っているかどうかよくお考えの上で意見してください。ただし、無視するのだけはおやめください。それは無言の差別です。

4いいところは褒めてください。あきらかな間違いは指摘して下さい。

祖神・・・・・・・三世孫
           :・・・・・・・・・・・・・鉱物王秦氏
         先住鉱物採取者       :・・・・・・・・・中継ぎ鉱山者多氏
                      海人族安曇            :・・・・・・・・・・中臣氏
                                     秦氏近親物部氏娘

あくまでもひとつの着想にすぎません。皆さんもご一緒にお考え下さい。なにか間違いがあるはずです。しかし、こんな系図なら誰にもかけてしまいます。あるいは・・・

ニギハヤヒ・・・ウマシマジ
           :・・・・・・・・・・ウマシウチ
         タケウチスクネ    :・・・・・・・・・・中継ぎ蘇我氏
                     カツラギソツヒコ     :・・・・・・・・・・・・・中臣氏
                                  秦河勝=多氏
こういう戯れ言をして見せるのは、作者のワナですから、簡単に落ち込まぬように。笑い



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4 鉱物氏族・多氏の分布

 投稿者:かわかっちゃん  投稿日:2007年12月21日(金)13時13分40秒
編集済
  東アジアの犬祖伝説分布
この調査でわかることは犬戎、槃瓠が持ち、やがて越、呉、秦へと引き継がれる犬祖伝説が
独自に海を渡って日本列島にまで民間レベルで及んでいることでしょう。これは日本人が彼らの子孫であるかないかの問題ではなく、伝承が海人によって?はるか昔から届いていたという事実です。それをどう判断するかは皆さんの自由ですが。
1 丹生氏は最初の鉱物採集民か?
今の段階では、丹生氏を最古の鉱物採集民とする説には異論もあろうが、文献上に現れる
氏族の中で最も古くから水銀を採集していた氏族あるいは彼らの管理者であったと言えるだろう。おそらく縄文時代から?

その分布の最も西よりなのが大分県臼杵市藤河内地区松原(訂正。松が嶽地区。6章に写真)ではないかと思う。
ここが極めて阿蘇に近いことから、おそらく弥生時代には阿蘇氏多一族の侵入に巡り会った
最初の縄文部落のひとつではないかと考えている。

阿蘇、あるいは祖母・傾山系を源流とする大野川は大分市丹生遺跡、丹生川遺跡を通過して、海部の大古墳亀塚、築山のある坂ノ市・王の瀬地区の河口へと流れ出る。

その大野川の源流沿いに古代から栄えた木浦鉱山、尾平鉱山という、極めて埋蔵鉱物種類の多い九州屈指の鉱山があり、各所に多氏の痕跡がある。

したがって支流である丹生川沿岸にあった水銀鉱脈や鉄分を含む高師小僧を、主として呪術、顔料を目的として採集活動を行っていた先住縄文人たちが丹生地域にいて、その定住先は九六位山をまたいだ臼杵市藤河内、諏訪地域にあったと見られるのである。

科野国造家、諏訪大社大祝、のちの金刺氏や他田(おさだ)氏が、阿蘇氏を大元とすると書いている。だからと言ってその内容がまったく間違いないとは誰にもわからない。しかし諏訪大明神絵詞や神道集の記述を分析すると、のちに伝説上の人物として現れる甲賀三郎訪方(諏訪頼方)が蛇体となって近江の人穴(坑道)から諏訪に出てくる話はあきらかに大和三輪山の苧環伝説を背景としており、蛇=大和大物主と考えられることから、多氏大三輪氏の伝説的鉱物神格を頼方が持っていたことになろう。

確かに伊予の河野氏は中世に伝説的鉱物採集者である河野大蔵之丞金次(こうのおおくらのじょうかねつぐ)を排出した。しかも弘法大師・空海が出た讃岐佐伯氏とはほぼ親戚関係だったことは司馬遼太郎氏の『空海のいる風景』にも記述がある。

少なくとも、熊襲の球磨地方の人々が、九州の大王・景行天皇に滅ぼされた後の記述は歴史書にはまったくないのである。けれど、想像を逞しゅうすれば、それだけの技術と知識と眷属である技術者集団を持つ彼らを簡単に絶滅させる必要がないのではないか。持っている知識なら利用するのが当然だろう。

事実、もう一方の阿多隼人たちの船舶操縦術は神武東征にも利用されたに違いなく、それは後に阿多隼人が天皇家直属の衛士となることでもあきらか。
ノーコメント。ただ分析されたし。
参考になればいつでも利用されたし。気持ちがあるならその時はご一報下さると嬉しい。

水銀鉱脈と多氏・大生部地名及び知事比定地、と安曇地名及び拠点の分布(途中経過・改善の余地あり)


青色円内は文献上の多氏、大生部の分布と現在確実な「おお」地名の一部。神社マークは丹生津比売が祭られている、乃至は祭られていた水銀関係神社と閼伽関連神社。

1  火の君
2  筑紫三家連
3  阿蘇国造家(阿蘇氏)
4  大分の君(海部氏)
5  伊余国造家・印旛国造家(常陸国の印旛沼のいんばと同音同表記)
6  広島県佐伯郡周辺から岡山県西部の佐伯臣・佐伯連
7  讃岐の雀部(さざき)・雀部造
8  茨田(まんだ)連(現在の学研都市線・茨田大宮(まったおおみや)周辺)
   および河内の陶邑のおおたたねこ。
   京都の小子部氏。すがるを出す。すがるとは蜂=雷
9  小長谷造(おはつせのつくり奈良県吉野郡)
   高市郡高取町や五條市の坂合部氏。
10 都祁直(つげのあたい・奈良県吉野郡つげ)
   および磯城郡田原本町大字多の多座弥志理津比子神社
   (和名抄では十市郡飫冨おう)周辺。
   さらに桜井市三輪山の大三輪氏。のちに宇佐大神氏も?
11 伊勢の船木直およびこれは異伝で熊野の紀氏。
12 尾張の丹羽臣
13 伊豆安積氏のちの伊東氏
14 上総の長狭国造
15 常陸国鹿島の板来(いたく、今の潮来か?)の建貸間命
   (たけ・かしまの・みこと)を奉じる佐伯氏出身坂合部氏
   常道(茨城県北部)の那珂国造(ここには肥前杵島山と同じ名前の山がある。)
   および秦河勝に叱咤された大生部大。佐伯氏は鹿島の国樔の民を引率管理。
16 道奥の岩城国造(福島県がみちのく!鹿島はみちのくちと言った。
   つまりここから東北だった)
17 科野国造家・のちの金刺氏や他田(おさだ)氏。
   (金刺氏の家紋は三つ葉梶の葉で諏訪大社に似る。)
18 出雲の意富郡の意富氏。
19 出石の伊福部神社周辺の大生部
20 近江の伊吹山の伊福部氏

なお、以上の他にも地名の「大、多、大生、青、蒼、三輪、太、意富、邑生、飫富、於保、大生原、原、杵島、大炊、飯宝、飯富、青梅、奥武、大野、太田などの地名や人名周辺に水銀鉱床あるいは鉄鉱床が有る場所、田園、また漁師町、木地師のいた山林などに多氏の痕跡があると思われる。また古事記書写したという太安万侶も一説では多氏だと言う。

ただし!以上すべては後世の1、附会 2、血縁関係を結んだ 3,彼らを管理した・・・などなどのつながりもあり、すべてが「同族」とは言い難い。
ただ多氏の痕跡には必ず水銀鉱脈と中央構造線、および丹生津比売神社が関わる。また、「います」系神社も今後注目すべし。

黄色いマーキングの安曇族分布はいまだに未定である。ただし海人族安曇と多氏は同根あるいは血縁であることはほぼ間違いなく、それは奈良の葛城氏が鴨系であることと対応するかと思える。

大伴氏、物部氏と中臣氏と海部氏はまず間違いなく彼らの中にいた、乃至は彼らを管理していた。
蘇我氏は葛城氏の墳墓のある二上山、葛城山周辺を本拠とした葛城系統の鉱山氏族から出たのではないかと思う。これは未定。
なお、中世以降に起きた多氏氏族の流残が伊豆などで起きているがそれはあとの時代なので入れていない。

下の秦氏分布図と安曇、多氏の分布を比較すると「棲み分け」と「同棲」があることがわかる。これはおそらく渡来人秦氏の来日が遅れたことが関与している。秦氏はすでに水銀よりも鉄や銅といった具体的武力・農業力のための鉱石によって殖産興業という大きな権威を欲していたからだろう。もちろん、仙薬、顔料としての丹もいくらかは必要とし、そこで海人族系多氏大生部との管理、被管理関係を作ったのではないか?
それは主に利害関係であり、多氏の臣や値の多くが5世紀前には各地の首長になっていったのにはやはり秦氏や藤原氏への献身があったためであろう。
だが、多氏の配下にいた「多人」たちの中には、先住民としてすでに丹を採取していた土蜘蛛や国樔がいたわけで、彼らが資源や技術を利用されていたことはまず間違いない。
「鬼」とは彼ら常民の中の「多」姓を名乗る者たちのことである。管理者のことではない。
それが百合若大臣や桃太郎話が派生したひとつの類型ではないかと考える。
それは安曇も含めておおよその先住民がそうだったはずである。


秦氏の分布(古代で遊ぼサイト川上氏制作)
http://www.tcn-catv.ne.jp/~woodsorrel/kodai/kk10.html

比較されたし。

なお、多氏の各氏族は皆、天孫の兄弟とされる神八井耳命あるいはその弟神の彦八井耳命から出た建磐龍命(たけいわたつのみこと)を祖神とする。科野国造は建五百龍(たけいおたつ)、鹿島の坂合部氏は建貸馬(間)命をそれぞれ祖とするが、これも神八井耳の子神である。

神八井耳命の「耳」は魏志の官職名からであろうか。宮崎県に耳川、美々津港地名がある。
神八井耳には今一人弟がいて、それは綏靖天皇となる。西都原にある都萬神社は大山積とその娘・このはなさくや姫が祭られる。この神社には「お乳の神様」が祭られてもいるが、若尾五雄は『黄金と百足』の中で「お乳信仰」とは鉱石から染み出す水銀のことであると書いている。



建磐龍命は阿蘇開闢の神で、蹴り裂け権現である。「裂け」とは「避け」であり、いわゆる秦氏の「避け」「酒」と同じ意味であろうか?秦氏と多氏のつながりを考える時、この「さけ」でのつながりは重要であろう。

以上までの記事2006年11月4日編集 かわかつ著 つづく

多氏などの水銀・鉱物資源採集民が居たところには必ず同じような地名が残る。
それは鉱物そのもの(丹生、壬生、入田、入川、遠敷、青、赤、閼伽など)であったり、梶とか鍛冶屋、蹈鞴、ととろ、轟といった加工職名だったり、あるいは彼らに付随して入植した職能民(紙漉、桑畑、由布、由、柚、雉子、犬鳴、犬吠、深草、須恵、ろくろ、六郎丸、九六位など)がいたための地名なのではないか。

丹後、丹波、丹比なども同じであろう。福井の遠敷という表記は後世のものであろう。ネコ流し淘汰法で使うムシロを「敷く」こととなにか関係がありそうだ。

水銀鉱脈には自然に砂鉄、砂金を作る溶解性がある。
また水銀はあらゆる鉱物を粒子にして溶かし込む力がある。
従って鉱物を探す場合、まず水銀鉱脈を発見するのが手っ取り早い方法である。
修験者や山師は峰入りする際に、まず
1 河口の砂を調査分析する。
2 必要な粒子があれば川を遡って
3 赤茶けた岸壁などを探し
4 あたりの植生を調べ、笹百合、箱根シダ、楓などの「指標植物」を探す。
5 楓などに群がるスズメバチなどを探す。
6 たたら製鉄に充分な風が吹く場所も併せて探す。(福原、伊福、於福、息長、伊吹山)
7 目印になる山、樹木、巨石を記憶する。
8 星と月の位置や月日を考え合わせ、方角を記憶する。(風水、陰陽五行、宿曜教、干支。   猿、犬、酉  は吉相の方角などなどの応用)
9 別に隕鉄などを含む隕石が落ちるのを観察する。(妙見・三宅)
10百足と呼ばれる石英の筋を岩石に探す。その先に鉱脈がある。

こうして地名がつけられてゆくと思われる。以上の所作を「鵜の目鷹の目」と言う。
鵜の目とは硫黄鉱脈、鷹の目とは黄銅鉱鉱脈を指す。
そして鉱物を掘り出す人夫(炭坑夫)が山にはいる。
最初は間歩入り口を掘り、坑道内に落盤を防ぐつっかえの木枠を組む。入り口は広く作る。
この状態を外から見るとお稲荷さんの鳥居が並んでいるように見える。
特に危険な箇所には一本木でつっかえをする。これは神社の心の御柱や家庭の大黒柱と同じ。
木組みには鳥居型と家型がある。家型は手のひらを合わせた合掌式のもので、長野県松本市の大室古墳群にある合掌式石室や九州の家型石棺にも似る。

峰入りの儀式は中国の鉱物王・禹が片足を怪我していた故事にちなみ「禹歩」(猿歩行)を行う。これはまず怪我をした歩行をしておくことで、採掘の落盤事故や病気や災いがないよう未然に山の神に祈るためだろう。
「猿まね」と言えるか。
なお禹王の片目はたたら製鉄師が片目が多いことを示し、片足なのは山師に事故が多いためであろう。
やがてあとになって彼らが追いやられてゆく過程で、山師=鬼=山の妖怪と変化していったと思われるのは、一つ目小僧、一本だたら、などの妖怪が各地で空想されてゆくからである。
同じ妖怪でもだいだら坊やダイダラボッチなどは巨人であるが、あれは「おおあなもち」=大己貴神と変化してゆく。大穴とは製鉄技法の「カンナ流し」から出ている。カンナとは「かんあな」=「鉄穴」であるから、カンナ場、鉄穴場、鉄輪などの地名が残る。近くには彼らの管理者の古墳が必ずある。

またネコ流し技法を使った場所は「糠」などの地名が残る。ネコとはヌカが訛ったものであろう。砂金、砂鉄を糠に見立てたのだ。

閼伽、赤地名は銅や鉄錆、あるいは朱沙の酸化した色などから。
サビから「寒い」が生まれる。
寒水(ソウズ)、寒川、寒田(サワダ)、走水(ソウミ)などは鉄を錆びさせる水が湧く処か。
斐伊川は氷川(ヒカワ)?錆で赤く染まる川。これが八岐大蛇の正体。スサノオは台風。暴風雨ガ大河を狂わせる。氾濫を治める治水工事であろう。
だからオロチの尾から砂鉄を表す天の叢雲剱が出てくる。

参考文献 田中勝也『東アジア古伝承と日本原住民』新泉社 1990年
       諏訪春雄『日本王権神話と中国南方神話』角川選書 2005年
       若尾五雄『黄金と百足-鉱山民俗学への道』人文書院 1994年
       谷川健一『四天王寺の鷹 謎の秦氏と物部氏を追って』河出書房新社2006年
       森 弘子『太宰府発見』海鳥社 2006年
       『新羅千年の古都 慶州』高麗書籍 1987年

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